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 烏が鳴いて、びくりとすることがある。予想だにしない距離で予想だにしないものが現れる。それはいつだって僕たちを驚かせる。怖がらせる。
 例えば烏は兄だった。例えば鳴き声はキスだった。一周忌の夜。じっとりした六月。小雨。
 僕は兄と寝た。


 葬儀の次の日だった。体中が痛くて、目が覚めた。頭がぐらぐらして、ひどい気分で、これはきっと両親が死んだせいだと思った。
 顔を洗って水でも飲もう。そう思って、洗面台に向かった。布団の横にあるランタンの電源を入れて、廊下に出る。寝汗なのか、寝間着が水をかぶったみたいにぐっしょり濡れている。夜風に、ひやりとした。
 壁を伝いながら洗面台に向かった。足取りは重い。廊下が、いつもよりずっと長く感じる。寝間着も、ずるずる引きずっているみたいだった。気を付けないと、足にひっかけて転げそうになる。
 やがて洗面台に到着して、僕は灯りを点けた。鏡に、僕の顔が。
 映らない。
「は……?」
 僕は目を疑った。それは僕ではなかった。鏡に映ったのだ。僕よりも小さく、僕よりも髪が長く、まるで少女のようだった。
 それは僕だったのだ。それは葬儀の次の日だったのだ。


 結論から言うと、僕は僕でなくなっていた。祭壇には、自動車事故で死んだ父と母の他に、遺骨が一人ぶん増えていて、取り寄せた住民票には、僕と同い年で、性別だけすり替わった女の子の名前がひとつ、加えられていた。それが今の僕だった。
 役所から走って帰ってきてすっかり汗だくになった兄と、ただただ茫然としている僕が、茶の間で向かい合って、住民票を眺めていた。
「兄貴」
 先に、僕が口を開いた。自分のものとは思えない、鈴の音みたいな声だった。
「俺はさ」
「俺、やっぱこっちに戻ってくるわ」
 兄が遮るように言った。僕は声を詰まらせた。
「でも」
「大丈夫だよ。分かってる。俺もまだ、よく、飲み込めないけどさ。分かってる」
 あの時兄が本当にすべてを分かっていたのかどうかは、もう知る由もない。本当は、ただその時の僕を安堵させるためだけについた嘘だったのかもしれない。しかしもう、理由も真相も、どうでもよいのだ。今あるのは、それから起きたことだけだ。女になった僕と、男の兄が、一つ屋根の下で、二人きりで暮らすことになったという、結果だけだ。ただただ、それだけが、残っている。


 何もなかった筈の部屋。僕の部屋の隣にあった、兄の部屋の向かいにあった、六畳の和室。そこに、少女の部屋があった。そこには知らないベッドがあって、知らない机があって、化粧道具が、髪飾りが、スカートが、下着があった。少女漫画、聞いたこともないバンドのCD、表紙しか知らないファッション誌。ぬいぐるみ。薄桃色。
 めまいがした。しかし、慣れるしかないのだ。僕は今それなのだ。そう言い聞かせた。
 大学には、行ってないことになっていた。家事手伝い。つまりはそういうことだった。世間には、家族が死んだショックで、記憶が少し欠落しているという体で説明をした。皆、僕に同情した。女性のイロハはお隣の奥さんが世話を焼いてくれた。八百屋の主人は時折「余りものだから」と言って野菜をくれた。これで精を付けてはやく元気になりなよ、と主人は言った。
 彼ら彼女らは皆、僕を元からいる双子の妹だと認識していた。僕がそれではなく、ついこの間、眠る前まで男だった人間であると理解しているのは兄だけだった。
「お情けみたいなものかな」
 ある時兄はそう言った。誰の、と訊くと、そんなもの分かるか、と答えられた。
 兄が仕事を辞めたのは初七日が終わってからのことだった。両親がやっていた文具店を継ぐということだった。兄はいずれはこうなると思っていたそうだった。
 周囲の助けもあって、店はそれなりにうまくいった。赤字を出すこともなかった。兄は商売が楽しくなったみたいで、精力的に、色々やった。
 僕は家事をこなしながら、時折兄を手伝った。女の生活は、日々の暮らしは、すぐに慣れてしまった。スカートやトイレ、それから裸になること。そういうものに対するもやもやはなかなかとれなかったが、三か月経って、月の物を何度か経験して、それからは晴れた。
 晴れて、気が少し、緩んだ。それが良かったことなのか、良くなかったことなのか、今はもう判別できない。
 風呂の脱衣所で、ばったりと、出会ってしまったのだ。
 不慮の事故だった。兄は僕が風呂に入ってるとは思ってなかったし、僕も、まさか脱衣所に人がいるとは思ってなかった。
 ドアを開けて、見合って、それからすぐにドアを閉めた。どちらともなく謝った。謝りながら、身体が熱くなっていくのが分かった。それと同時に、自分が女の心持に傾いていることに強いショックを受けた。
咄嗟に胸を隠したこと、兄に、男に見られて、恥ずかしいと自分が感じていること。
 慣れた、とは言っても、どこかにまだ自分が男であると認識していた。自分が、まだ女を演じているだけだと、信じていた。それが、その認識が、目の前で、ひび割れた。
 それからだった。
 兄と僕の間にあった均衡が、少しずつ、崩れていったのは。


 兄の服を洗う。兄の茶碗に飯をよそう。兄の布団を敷く。蓄積されていく毎日の行為の中で、僕は次第に兄を意識するようになった。兄もどうやらそうだったらしく、時折僕が隙を見せると、顔を赤らめながらそっぽを向くようになった。
 そういう兄を見るたびに、僕はひどく心苦しくなった。それは僕も抱えているジレンマなのだ。
 家族であること。そして何より、元は同じ姓であること。
 僕たちは綱渡りをしていた。初盆の終わりの日。夏が陰っていく季節に。
 そういう時に、祭りに行こう、と兄が誘った。隣町の神社で、八月の終わりごろに祭があるのだ。
「いいよ、あそこ人多いし」
「たまにはいいだろ。今年はさ、あんまり楽しい思い出ないから」
 普段は、ずっと泣いてしまいそうになるからと、おくびにも出さないようにしてはいるが、両親の死というのは、僕たちの目の前に、実体化して横たわっていた。僕の変化が唐突すぎて、今はそう傷を受けていないように思えるが、きっと波が収まれば、僕たちは泣く。そのことを兄も僕も、分かっているのだ。
 兄はきっと笑っていたいのだ。波をうたせていたいのだ。
「……わかった。行こう」
 僕はため息交じりに答えた。そして一つ、思いついた。
「あのさ。母さんの浴衣、着てみてもいいかな」
「いや、お前、でも」
「いいよ」
 もう諦めた。口から出まかせに言ってみた。
 本当は、踏ん切りがつかないでいた。ただ、見知らぬ双子の妹として、そういう肩書で生きていく、ということに。だが言ってしまえばこっちのものだ。きっとその様になっていく。そう信じていた。


 手をつないでいた。それはもう十年以上やっていなかったことだった。
「多いな」
「そうだなあ」
 互いの掌が、汗にまみれていた。僕は着慣れない浴衣が着崩れしないよう、ちょこちょこと細かく歩いた。兄は、たこ焼きのパックを持ったまま、僕にスピードを合わせてゆっくりと歩いた。
 心臓の高鳴りが、手に取るように分かった。人前で女の格好をするのは、初めてではない。でもそれは仕方なくやっていたことであって、こうやって自分の意思でそれらしい格好をして出歩く、というのは、初めてのことだった。
 恥ずかしくなったし、怖かった。むき身の刃物に囲まれているような気分だった。それで、僕は兄の手を強く、握っていたのだった。
「一個、食うか」
「ありがと」
 兄がたこ焼きを一個、爪楊枝にさして渡してきた。僕はそれを手に取って、一口分、噛んだ。けれどまだたこ焼きは冷えてなくて、中はしっかり熱くて、思わず僕はそれを取り落してしまった。
「大丈夫か?」
 兄は僕を心配しながら、浴衣が汚れていないかと屈んできた。顔が、目の前に、くる。
「あ……」
 思わず、以前のように見合ってしまった。
「……問題、なさそうだな」
「うん」
 また掌がじわりとした。内側から熱波。太鼓と笛の音が、遠くから聞こえた。


 波はたった。しかし、たちすぎた。僕たちは難波しかけていた。
 兄はますますよそよそしくなった。僕もまた、兄を含めたあらゆる環境を、遠巻きにするようになった。
 折り合いをつけなければならなかった。しかし、その手段が、皆目見当もつかなかった。僕も兄も、きっと未熟だったのだろう。そのまま彼岸が過ぎて、年を越し、また春の彼岸がやってきて、それから、一周忌になった。
 喪服のワンピースは畳んだ。明日、兄のスーツと一緒にクリーニング屋に持っていく。兄が、親戚を駅に送る、と言って車で家を出たのは五時半だったから、あと十分くらいで帰ってくるだろう。そういうことをつらつら考えながら、僕は二つの湯呑に番茶を注いでいた。
 僕は、決心していた。何を言うか。これからどうするか。自分の為に、兄の為に。
「ただいま」
「……おかえり。兄貴、ちょっと、そこ。そこに座って」
 腹を決めた。いぶかしむ兄を無理矢理座らせて、ひとつ深呼吸をしたあと、僕はこう言った。
「俺さ、ちょっと、出ていこうと思う。遠くに」
 兄は、呆けていた。それもそうだろう。しかし僕はそれを気にしないふりをして、話し続けた。
「ほら、あの、やっぱ、こうしてこのまま、ってのは、ちょっと、暮らしづらいだろ。なんか、互いに気を遣いすぎてさ」
 だから。そこまで言って顔を上げた瞬間、兄は僕を抱きしめた。湯呑が倒れて、番茶がこぼれた。
「いいんだよ、もう」
「でも、俺と兄貴は」
 口が塞がった。それはキスだった。兄が烏になり、鳴き声をあげた。
 背徳感と罪悪感。幸福感と安堵感。白と黒のマーブル模様が、六月の小雨の中で、地面に解けていった。
 僕は兄と寝た。ただの女になった。一周忌。僕の命日になった。ふたりは、まだ、泣いていない。

一周忌
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