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十一月の雨

 僕が少女となったのは今年の三月のことだ。まだ冬のにおいが残る夜、腹がきゅうと鳴って、翌朝にはそうなっていた。はたしてその腹をきゅうと鳴らすのが兆しだったのかどうか、僕にはとんと分からないが、ともかく僕は女の子になってしまった。

 それで、今は秋だ。もしかしたら、もう冬なのかもしれない。帰り道にひとつだけあるイチョウの葉は、半分は落ちてしまってる。
「もうすぐ冬だね」
 僕は横でいっしょに歩いてるケイちゃんに言った。幼なじみのケイちゃんは前ばかり見て、そうね、とだけ返した。
 ケイちゃんはいつもツンとしている。それなのに、世話をやく。僕がこんなになってすぐの頃は、すごかったのだ。それこそ、僕の親かなにかのようだった。
 といっても、それは僕が女の子になってからの話である。ちいちゃい頃は――それこそオトコもオンナもなかった頃はともかく、これまでのケイちゃんは、ツンとするどころか僕に見向きもしなかった。あの頃のケイちゃんはまさしく、少しずつ離れていく、異性の幼なじみ、だったのだ。
 今のケイちゃんはよく分からない。攪拌されてしまっている。マルとかバツとか、そういうのが、判別できない。
 今のケイちゃんて、どんななの。
 訊いてみたくなる。なるけど、そんなの訊くのは、なんだか変だ。こんな学校と家の間で、訊くのは。学校と家の間の、川と畑に挟まれたアスファルトの上で。
「トウヒコウ、してみたいな」
 独り言みたく、言ってみた。
 こんな日は、トウヒコウ、してみたいな。
「ケイちゃんは? してみたい?」
 僕はケイちゃんを見た。
「別に」
 ケイちゃんは僕を見ない。見ずに、息を吐く。空気が、ころころ、まろびおちる。
 ケイちゃんが見ている方向を、僕も見る。
 道がある。まっすぐ、ある。この道をまっすぐ行くと、橋が現れる。それは川を渡るための橋だ。そこを渡れば、僕の家や、ケイちゃんの家に着く。渡らずに左へ折れたら、海に着く。
 夏になっても人がほとんどいない、小さな砂浜だけの海。小さい頃、ケイちゃんとそこで遊んだことがある。たぶんあのとき、僕らは生まれて初めてバスに乗ったのだ。バスに乗って、トンネルをくぐって、海沿いのゆるい曲線をなぞっていった、いつかの七月のことだ。
 つい、と僕の目の前を羽虫が横切った。羽虫は音を立てて飛んでいた。とても間近で飛んでいたので、鼻先で空気の動きが感ぜられた。
「トウヒコウ、してみたいな」
 もう一度言った。
「したっていいよ」
 ケイちゃんがこぼした。
「したって、いいんだよ」
 私はべつにどうだっていいんだから。聞きなおそうとした僕に、今度ははっきりと言った。
 草をなぐ風が、耳のあたりでぴぃおおうと鳴いた。風は、鳥、のようなけもの、の姿をしている気がした。
「今からだっていい?」
 ケイちゃんは、いっそう、こっちを見ない。
「いい」
 よりいっそう、こっちを見ない。
「じゃあ、バス停行こう」
 そいで、逃げちゃおう。
 ケイちゃんは、首を下げた。頷いたのかどうかよくわからないあんばいで。ケイちゃんは、ぐるぐるしているとき、そうやって肯定する。
 僕はケイちゃんの手を取って走った。バス停までずんずん走った。当たり前だけど、ケイちゃんの反応が遅れたので、僕の身体に一瞬だけケイちゃんの体重がまとわりついた。
「走るの?」
 走るほうが、そんなふうでしょ?
 ケイちゃんに言った。トウヒコウは、何事も雰囲気なのだ。

 バス停に着いたら、ちょうどよく海を通るバスが来た。僕らはバスの一番後ろの席をたった二人で陣取った。お客は、おばあさんと、おばさんと、おじさんと、おじいさんだけだ。それぞれ本を読んだり、向こうを眺めたり、居眠りしたりしている。
 ケイちゃんは席の右端で窓の外を眺めている。僕に話しかけてはこない。
 僕は少しだけ逡巡して、結局バスを降りるまで話しかけないことにした。これは、保つべきだ、と考えたのだ。トウヒコウとは、騒いだり喋ったりするもんじゃないと、僕は思う。なので、保つべきだと考えたのだ。澱んでいる気まずさと一緒に。
 こうして僕らはバスの一番後ろで何も言わずにいた。ケイちゃんは窓にもたれかかって体を崩していたけれど、僕はなんだかこごってしまって、人形みたくなっていた。人形みたくなっているうちに、おばさんが降りて、おじいさんが降りて、おばあさんが降りて、他の客がおじさんだけになってしまった。そのうち僕らだけになるんじゃなかろうかと思っていたけれど、海に着いてもおじさんは降りなかった。
 運転手さんがアナウンスをしてから僕がボタンを押すまで、少し時間があいた。一度来たきりだったから、バス停の名前を覚えていなかったのだ。
 バスが止まりきってから、僕は席を立った。ケイちゃんも、半歩遅れて立った。おじさんの横を通り過ぎて、降車口へ行く。おじさんはビール缶を抱きしめて眠っていた。
「バス賃、僕が払うよ」
 え、とケイちゃんは小さく言った。
「いいよ、払う」
「大丈夫、あとでジュースおごってもらうから」
 ならいいけど。語尾が細った。
 このやりとりは駄目だな、と僕は思った。これはトウヒコウじゃない。ちょっと違う。トウヒコウはもっと、カラカラしてなくちゃいけない。
 僕は支払機に三六〇円入れて、ケイちゃんの腕を引っ張った。財布の小銭入れから百円玉がなくなった。
 バスの急な階段を下りて、外へ出た。呼吸をすると、潮のにおいがまとわりつく。
「海」
 視線を路から前のほうに向けて、僕とケイちゃんは立ち尽くした。
 海だった。空が曇っているので、白黒映画のような色をしている。それでもって、広い。
 広いね、と僕が言うと、ケイちゃんまっすぐ海のほうを向いて、そうだね、と返してきた。声が呆けている。
 僕は二、三歩進んで前の堤防へ腰掛け、僕の手が腕からはがれた。
 びくり、と、ケイちゃんの腕が震えた。
「あ」
 立ち尽くしたまま、ケイちゃんから声が漏れ出た。
「どうしたの」
「……別に」
 寄り添うようにひっついていた視線を引きはがして、ケイちゃんはそのまま、ジュースを買ってくると、道路を横切っていってしまった。
 僕は視線を戻した。曇り空の下で、鳥の群れが鳴いている。僕は鳥に詳しくないので、鳴き声や姿形でその鳥が何なのか判別できない。判別できたとしてもあまり意味はない。
 ひとときして、ケイちゃんが戻ってきた。僕はサイダーをもらった。よく知らないメーカーの徳用五百ミリ缶だった。
 僕はケイちゃんを見た。コーラの缶を開けるところだった。ケイちゃんのは五百ミリじゃなくて、普通のサイズのものだった。
「そんなので、いいの」
「いいよ」
 僕は視線を海に戻して、サイダーの缶に口をつけた。海は穏やかにみえた。そうであるような気がした。
「穏やかだね」
 ケイちゃんが言った。
「海が?」
「海が」
 そんな気がしているのに、僕はそうだねと言えなかった。言い切れなかった。僕はその理由を知っている。でも知らないふりをした。そうしてないといけないと思った。
「ここからどうする」
「どうしよっか」
 ケイちゃんの質問に、僕は答えきれない。どうする? どうするんだっけ、僕は?
「ねえ」
 ケイちゃんが語気を強めたので、僕は視線を海からケイちゃんに移した。
 ケイちゃんは僕を見ていた。じっと見て、じっと、かためていた。
「どうするの、ここから」
 それは切羽詰まった声だった。頬がほの赤い。
 ケイちゃんが僕の左手に自分の右手を重ねてくる。ケイちゃんのそれは熱く湿っていた。
 僕は、こわくなった。ケイちゃんの体温が、そこにあるものが、それに対して為すべきことが、こわくなった。
 目をぎゅっと閉じて、ゆっくり開ける。
「ここから」
 僕はケイちゃんの手を握って、それから身体を引き寄せた。
「こうしよう」
 そんでもって、飛び降りた。堤防から、倒れるように。
 身体のほかは何もなくなったような気になる。でも堤防はあまり高くなくて、だからそれは一瞬だけで、あとはもう、ただ、鈍く痛いだけだった。
 僕はケイちゃんを抱き留めたまま砂の上を転がった。転がりながら、子供の頃を思い出した。いつかの海を。オトコもオンナもない七月を。
 ケイちゃんが僕の上にいる状態で、転がり終えた。ローファーの中に、砂と塩水が入りこんでくる。
 砂だらけのケイちゃんは砂だらけの僕をじっと見た。一本に結っていたケイちゃんの髪はいつのまにかほどけていて、ゆっくり揺らめきながら僕の頬をちくちくと威嚇した。
「あたしさ」
 ケイちゃんはかすれた声で言った。
「うん」
 僕は返事した。
「あたし、さ」
 また言った。ので、また返事した。
 あたしさ。あたしさ。
 ケイちゃんはずっと、そればかり言う。声も眼もうるませながら、そればかり。僕は無表情に返事し続けることしかできない。壊れたおもちゃみたいだと思った。
 そうして、何度かそのやりとりを続けていたら、ケイちゃんは僕の胸にうずまった。火傷しそうなくらい熱い。
 うずまったまま、やりとりは続いた。そのうち「あたしさ」と「うん」が何を表す単語なのか分からなくなってしまいそうだった。
 そうこうしているうちに雲はずっしりと重たくなって、雨粒をぼろぼろ落とし始めた。十一月の雨は冷たくて、僕はよりいっそう、ケイちゃんを熱く感じた。
「ケイちゃん」
 僕らはやりとりをやめた。
「僕らはまだ、逃げられないや」
 十一月の雨は冷たかった。ただ、冷たかった。

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