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癇癪と色気

 蜂蜜のような匂いのする女だった。出会った時も、寄り添った時も、舐る時も、いたぶる時も、彼女はその匂いを身に纏わせていた。
 癇癪をおこさせるような、甘い匂い。
 鏡の前で、僕はそんなことを思い出す。
 また、思い出す。


 私、こないだまで男だったの、と、ベッドの中で彼女が言った。
「魔女にね、呪われちゃったの」
「そいつは面白いね」
 隙間を粘土で埋めるように、僕はそう答えた。彼女は不満げに口を尖らせたが、それからは何も言わなかった。
 僕たちは、今夜出会った。今夜繋がって、今のところ、明日の朝には離れる予定だ。
 そういうものだから、僕は彼女の話を冗談だと思った。(無論、普段はそういう話を信じている、というわけではない)
 小気味のいい女だった。少々たどたどしかったが、僕が思った以上の反応を彼女は返してくれたし、身体も、思った通りに良かった。隅々まで、良かった。
 ふと、横を見る。彼女は目をつむって、ゆっくりと息をしていた。深い眠りの中にいるらしい。
 明日のうちに別れないまま、繋がり続けてしまおうか。思いもよらないことを、思いついてしまう。それくらいやわらかな寝顔だった。
 もうろくする歳でもあるまいに。
 自嘲しながら、僕も目を瞑る。明日にはもう赤の他人だ。明日にはもう……


 蛇口を捻ると、シャワーノズルから水滴が雨のように落ちてくる。やがて水が温まるまで、僕は目を細めながらそれを眺め続けた。
 カルキの匂いがきつい。浴室にほんのり漂うかび臭さをもみ消してしまう程だ。
 だが、そこまでだ。かの女の記憶は、何者も寄せ付けない。
 浴室のかびも。カルキも。時間それそのものすら。


 彼女が僕の目の前に再び現れた。件の夜からは一週間ほど経っていた。
 梅雨の終わり頃で、少し強めの雨が降っていた。僕は傘を差していて、サマードレスの彼女は濡れそぼっていた。
 子犬を拾う心持ちで、僕は彼女を拾った。喫茶店に入り、借り物のタオルで滴を拭う彼女にコーヒーをおごった。
「自棄になっちゃった」
 事情を尋ねる僕に、彼女は言った。
「男に戻りたかったんだけどね。魔女なんてもうどこにもいないし。それで、自棄になっちゃった」
「そういうのは、その時一度だけでいいよ。引っ張り続けても、冗談は面白くならない」
「そうじゃないよ。信じてくれないのも、分かるけど」
 いやに切迫した表情で彼女が言うので、気圧されると同時に驚いた。彼女の、その白昼夢のような妄想にも、またそれを信じてみんとする自分自身にも。
 なぜそんなふうに思ってしまうのか、自分でも分からなかった。彼女の持っている何らかに、知らず知らずあてられているようだった。
「何にせよ、自棄になるのは良いことじゃない」
 振り切るように僕は言った。彼女はただ黙々と頷いた。それから暫くは無言が続いた。
 やがてコーヒーカップが空になった。彼女は僕に礼を言い、席を立った。
 傘がないよ、と僕が言うと、もうこんなに濡れちゃってますから、と彼女は返し、うっすらと微笑みながら店を出て行った。
 彼女を追うようにして僕も店を出た。未練に近いものが、僕の心臓を覆っていた。
 逃さないよう、腕をつかむ。それは記憶にあったものよりもすべやかで、ほっそりとしていた。
「もう少しだけ」
 もう少しだけ、雨宿りしませんか。両の目を見開いた彼女に、僕はそう言った。やがて彼女は、あきらめるようにふうと息を吐いたのだった。


 浴室を出る。ベッドが一つ。腰掛けると、スプリングが安っぽい音を立てた。
 時計を見る。すでに夜は深い。僕はそのままベッドの中へ潜り込んだ。明日を、待つことにした。


 このまま逃げてしまおう、と思ってしまったのはどういう理由からなのか、今では思い出すこともできない。だが、理由はともかく、僕は逃げていた。彼女と共に、現実のそばにある何者かから。
 僕の古びた軽自動車は、東西南北をくまなく走った。僕たちはその道中で思いつくままに宿をとり、そして寝た。そうしていくうちに、彼女の色気は増していった。
「悪い女だな」
 僕がそう言うと、彼女は僕の上になり下になり、はにかむのだった。その度、僕は癇癪を起こすのだった。
 僕は僕を揺さぶった。それにあわせて、彼女は蜂蜜の匂いをまき散らした。それらはスパイラル状になって、夜を短くしていった。
 白昼夢のような日々だったと思う。輪郭の薄い、ニュアンスだけのような。だが勿論、そういうものは得てして長く続くものではない。終わりはすぐにきた。
 財布の中身が、無くなったのだ。
「帰らないとなあ」
 夏の夜、海岸沿いのねじくれた県道を走りながら、僕は彼女に言った。
「どこへ?」
「どこへって、元いた場所にさ」
 そう答える僕に、彼女は、私たちの居場所なんてもうどこにもないよ、と彼女は言った。
「それに、私、もういなくなっちゃうし」
 僕は路肩に車を停めた。ハンドルから手を離し、助手席の彼女に目を向ける。彼女は、蜂蜜の匂いをくゆらせながら、まっすぐと前を向いていた。
「どういう意味?」
「そのまんまの意味だよ」
 私、いなくなっちゃうんだよ。感情を取り落とした声色だった。
「魔女のせいなのか」
「そんなところ」
 カーラジオが音をうわずらせながら、音楽をかき鳴らしている。喘ぎにも聞こえた。
「人魚姫みたいにね、消えるんだって」
 僕はひとつ咳払いをした。
「ひとつ訊きそびれていたけれど、そもそもなんで女になろうと思ったんだい?」
「なんとなく」
「なんとなく? それだけ?」
 そう返す僕に彼女はひとつ息を吐いて、それからこちらへ向き直った。
「それだけだよ。それだけ。女になるのも、人生とかも、だいたいは、それだけだよ」
 言葉が終わり、それからすぐに、彼女と僕の唇が重なった。やわらかなキスだった。
「ずっと一緒にいられたらいいのにね」
 僕は彼女をかるく抱いた。すると彼女は形を失って、僕にじわじわと浸透していった。
「大丈夫だよ」
 根拠のない言葉が、滑るようにはき出されていく。
「一緒だよ。ずっと一緒さ」
 やがて車内は水を得た。空気は失われて、僕の意識もまた、失われた。


 朝日が昇って、目を覚ました。空調が効きすぎているのか、すこし肌寒い。喉もかさかさする。
 僕はのびをした後、ペットボトルに残った水を飲み干した。
 前を見る。テレビがつけっぱなしだったので、電源を落とした。画面に自分の姿が映る。
 裸の女。
 それが今の僕のすべてだった。


 気づいたのは夜明け前だった。彼女はいなくなっていた。僕は姿を失っていた。そしてその代わり、彼女の姿と色気に、閉じ込められていた。勿論最初は戸惑ったし、押しつけられたような気がして怒りもしたが、やがてすべて諦めた。
 車のエンジンをかけて近くの町まで行き、死なないように、男の間を渡り歩いた。そうあるのが、自然であると思ったのだ。
 そうしなければ、打ち消せない。
 僕の身に潜む、この癇癪と色気は。

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