朝、日が昇る前に散歩をする。今はまだ風が涼しいが、もう少し時間が経てば、これもたっぷり温度を含むだろう。そのうち、ちょっと歩くだけで汗ばむようになるはずだ。
浜辺通りは静かだ。来た当初は潮くささが鼻についたが、今はそれがないと物足りない。くせになっている。
ジャージ姿の男子学生がジョギングをしている。お辞儀をすると、彼は目の醒めるような大声で、おはようございます、と挨拶して通り過ぎていった。
僕にもああいう時期があった。遠い過去。仕事も結婚も、まだ遠い先にあった頃。僕も、学校指定のジャージ姿で、川べりの細長い道を走っていた。
「あ」
日が昇る。僕は眩しくて、目を細めた。六月七日。依子の誕生日だ。
「おめでとう」
風に乱れる前髪をかきあげて僕は言った。依子の声で。依子の唇で。
事故があった。不運な事故だった。大型トラックのスリップ。多重衝突。新聞の三面記事に。政治ニュースのひとつ手前に、居酒屋のお通しみたいに出される、何の変哲もない不幸だった。
死んだ。
視界がコンテナのシルバーで埋め尽くされた瞬間、僕はそう思って目を閉じた。それから爆音が耳に響いた。
けれど次に目を開けた時、僕は白い天井を見ていて、胸の中の空気が一気に抜けていった。
依子、と声がした。依子の母の声だった。その声を聞いて、今度は全身の強張りが一気に抜けていった。
僕たちは助かったのだ。とかく、命だけは無事だったのだ。そう思った。
「依子」
だがそれはすべて間違いだった。依子、と呼ぶ声の向かう先、身体の節々にある、怪我によるものとは思えない違和感。徐々に意識がはっきりとしていく中で、そういう小さなずれが、少しずつ積み上がっていく。
「依子、依子……あなた、依子が」
まさか、と思った。そんな漫画のようなことがあるはずもない。夢だとも思った。意識が戻る手前の、頓珍漢な夢。しかしすべて間違いだった。
五分後。手鏡の中から現実がやってきて、それを僕の耳元で囁いた。
海沿いの一軒家をリフォームして宿を始めたのは、五年ほど前のことだった。高垣遼平、もとの僕の七回忌のあとに来たこの海がきれいで、この海の近くに住めば、全部の過去をきれいに洗ってくれるのではないかと、僕を上澄みだけにしてくれるのではないかと思って、そうした。
当初、僕が一人で暮らしたいと言ったことに、二組の両親はあまりいい返事をくれなかった。しかし僕があまり熱心に頼みこむので、最後は折れてくれた。
ペンションは、それなりにうまくいった。夏場はもちろん、オフシーズンでも釣り客が利用することがあって、生活には困っていない。
車には、未だに乗れない。ドアに手を掛けるたび、あの、鈍い半光沢のシルバーが視界を覆って、その場に吐いてしまう。
「ただいま」
玄関を開ける。おかえり、とキッチンのほうから声がしたので、そのままキッチンに向かった。
「あかりさん、早いね」
「んー、今日はね。目が覚めた」
キッチンでは、同居人のあかりさんがコーヒーを一人で飲んでいた。
あかりさんはレズビアンだ。家を抜けてぶらぶら放浪していたところで僕の宿に泊まって、そこで紆余曲折あって、そのまま居ついてしまった。宿を初めてすぐの頃のことだった。
「依子は?」
「なに」
「コーヒー」
「うん」
戸棚から僕のカップをとりだして、あかりさんがコーヒーを注いだ。窓からの朝日を受けて、液体は琥珀色に輝いている。
そのあとあかりさんはカップに角砂糖をふたつ落として、僕に差し出した。僕はそれを受け取って、ロビーチェアに腰を下ろした。
「今日、お客ないんだっけ」
あかりさんが訊ねてきた。平日だし、オフシーズンだしね、と僕は答えた。
「じゃあさ」
あかりさんがそこまで口にしたところで、僕はそれを遮った。
「急に来るかもしれないでしょ、お客」
「ちぇっ」
そう言ってあかりさんは、口を窄ませながらプレートをダイニングテーブルに運んでいった。僕はその様子に苦笑しながら、椅子から立ち上がった。
私、穴の空いたコップなの。
最初の夜にあかりさんがそう言った時、僕はベッドで疲れ果てていた。
初めての行為だった。初めての感覚だった。全身がびりびりとして、視界が明滅した。
「依子さんも、そうなんでしょ」
穴、空いてるんでしょ。あかりさんは僕を見下ろしていた。彼女の若い乳房が、つん、と立っている。
「じゃなきゃさ、私の誘い、乗らないでしょ。レズでもないのにさ」
「どーだろ……」
女性と愛し合いたかったのか。男性のほうがよかったのか。それとも、性別なんてどうでもよかったのか。僕は僕の感情の核が分からなかった。
あるいは、それがまだそういう次元に無くて、ただ本能的に埋め合わせをしようとしたのであれば。きっと僕も、穴の空いたコップなのだろうと思った。
あかりさんが笑った。僕を見下ろしながら、急に笑った。どうしたの、と訊くと、うれしいの、とあかりさんは答えた。それから、急に僕を抱きしめた。
「ちょっと」
「初めてなの。いいよって言われたの」
私、初めてなの。繰り返し繰り返し、あかりさんは言うのだった。それはかなしいことだった。それは僕のことだった。
記憶の混濁でしょう。医者に言われた。精神科を紹介され、カウンセリングが行われた。
あなたは高垣依子で、高垣遼平ではない。高垣遼平はもうこの世にいないのだ。あなたがどんなに高垣遼平を信じていても、彼はもういないのだ。肉を焼かれ骨を埋めて、安らかに眠っている。カウンセラーは、家族は、僕の周囲にある全ては、遠回りをしながら、あるいはまっすぐに、その結論へと僕を導いていった。
あるいはそうかもしれない、と思うこともあった。けれど僕の記憶の全てはどんなに思い出しても高垣遼平からの視点で、依子にしか分からないことは分からなくて、遼平にしか分からないことは分かって、だから、その結論は間違いだと言い切った。
そうするうちに僕の側に立つ人間は一人二人と減っていき、やがて僕だけになり、それ以上、僕も周囲もこのことについて表立って口にすることはなくなった。僕は、諦めたのだった。
素麺を茹でた。僕とあかりさんの昼餐である。
「いいねいいね。夏っぽくなってきましたね」
舌なめずりをしながらあかりさんが箸を手に取る。今時舌なめずりなんてやるのはきっとこの人くらいだろうな、と僕は思った。
「それにしても、梅雨はどこにいっちゃったんだろうね」
開け放った掃き出し窓からなだれ込んでくる海風を眺めながら僕は言った。そうらえ、とあかりさんは答えた。
梅雨入りです、とニュースが言ってからもう一週間は経つが、雨はさっぱり降らない。ずっと晴天で、空気もどこかからりとしている。湿っぽくならないのは嬉しいけれど、このまま夏に移ってしまうのであれば、それは少し寂しいことだ。
「愛想つかしたんじゃない」
ずるずるとずるずるの合間に、あかりさんが言った。
「梅雨が?」
「そうそう。梅雨が」
あかりさんは、時々、詩人みたいなことを言う。僕はその度どきりとする。それは、以前には無い事だった。
あなた、浪漫的でないのね。
僕が依子でなかった頃、夫婦でもなかった頃、依子に言われた台詞だ。その頃の僕は確かに、そういうふわふわとした物言いに疎かったし、言われてもはっとしなかった。結婚してもそれは変わらないままで、親戚や同僚からは、お堅いね、なんて言われていた。
それがいつの間にか、依子になって、十年以上を過ごしていくうちに、心が依子の方へ、寄っていった。あるいは、女性の方へ。
まただ、と僕は思った。こうして依子をひとつ思い出すと、次の瞬間ふたつになって、よっつになって、歯止めが利かなくなる。そして、なまじ体を遺しているせいだろうか、その思い出の群れはいつも熱を持っていて、僕をじくじくと焦がしていく。未練がましさが、身体の隅にこびりついて、とれない。
「ごちそうさま」
「おそまつさまでした」
やがて素麺はきれいに平らげられた。ガラスボウルを流しに置いてあかりさんの隣にもどってくるうちに、雲が仄かに空を覆って、いつの間にか日の光も弱っている。
「一雨降るかもね」
あかりさんが言った。
「そうだね」
僕は相槌を打った。それから、寂しくなるね、と、付け加えた。
すると急に、あかりさんが僕の肩を抱き寄せた。これは彼女なりの合図である。
「いいのかな。今日は休みじゃないのに」
「いいよ。きっともう誰も来ない」
それからキスがあって。宿の内と外で、雨が降った。
舐ったり、撫ぜたり、弄りあって、それで何をしているのかと言えば、実のところ、何もしていないのとほとんど同じなのであった。
僕もあかりさんも、それに気づいているのだけど、素知らぬ顔で、行為を続けている。
あ。
思わず声が漏れ出る。依子の喉をぐずらせながら、あかりさんは紅潮している。
「依子さん、可愛い」
あかりさんが耳元でささやく。
「やめてよ、僕は、そんな」
「ほら、三十三にもなって、僕だなんて」
「からかうなよ」
すべて一過性のものである。こういう悦びというのは、ただ過ぎ去るだけで、何も遺してくれない。ただ、そのあとを汚すばかりである。
僕たちは知っているのであった。何も生まれえないことを。やがてどうしようもなくなることを。
あ。
また声が出る。
「だめ」
「やめない」
「いや」
「うふふ」
「もう」
胸がつかえている。どこかおかしい気分だった。理由。知っている。
声が出なかった。ふたりとも。
変なこと言っていいかな、とあかりさんに訊ねた。
「変なこと?」
「そう、変なこと」
あかりさんは、天井に顔を向けたまま、視線だけを僕に遣った。
「いいよ」
僕は一度息を吸って、吐いて、それから声を出した。
「もしもの話」
「うん」
「もしも、むかしの事故の時、高垣依子と高垣遼平の心と体が入れ替わっていたとしたら」
「うん」
「もしも、今あかりさんの隣で寝てる高垣依子が、ほんとうは身体だけで、心は高垣遼平なのだとしたら」
信じる? そこまで言いかけた。でもそれは全部、言葉にできなかった。あかりさんが、人差し指で、僕の唇をおさえていた。
「言わなくていいよ」
あかりさんはそう言って指を離した。
「でも」
「信じるか信じないかはおいといて」
視線が天井に移る。
「多分ね。多分、依子は色々抱えてるんだと思う。遼平さんのこととか、私としてることについてだとか……ううん。それだけじゃない。私も思いつかないようなこと。たくさん」
だからさ。そこで彼女は体を変えて、転がるように僕に乗りかかってきた。乳房が触れ合って、ひやりとした。
「だから、多分、私が今ここで、そのもしもの話を信じるって言っても、なんの慰めにもならないし、解決しないと思う」
「……ごめん」
僕はあかりさんを抱きしめた。彼女もまた、僕を抱き返してきた。
「私のほうこそ。なんか、ふわふわしたことばっかり言っちゃって。依子を慰み者にしてるばっかりでさ」
「そんなことないよ」
そうかなあ。あかりさんはそう言ったまま、すこし泣いて、眠った。僕は彼女を蒲団にして、やはりすこし泣いて眠った。
朝から二人で散歩だなんて、初めてかもね。
「そうだっけ」
そうだよ、とあかりさんは言った。
「歩いて回るの好きじゃないし、私」
「それはそうだね」
僕はくすりとした。
温度のある風が吹いていた。夏は、僕たちが想像するよりももっとすごい速度で、こちらへ駆け寄ってきている。
サマードレスがたなびく。僕は横を見た。薄明るい水平線を背景に、あかりさんのすらりとした、青ざめた身体があった。タンクトップにハーフパンツ。少年のような恰好をしている。
珍しいことだった。あかりさんは、こういうことには誘ってもついてこないような人だ。それが今、こうして僕の隣についてきてくれている。僕が誘ったわけでもなく、ただ淡々と。
しかし僕は、その理由が分かっている。ついてきた理由。
「……あの話」
「どの話?」
「ホラ、昨日の、その、依子が依子じゃなくって、その……アレってさ、ほんとの話?」
すこし迷ったが、本当だよ、と僕は答えた。
「へえ、そっか」
あかりさんは、驚きも、拒絶もしなかった。それが僕にとっての驚きだった。
「変なこと」
「ん?」
「変なこと、言ってもいい」
いいよ、と僕は答えた。
「私ね、ここに来る時、死のうと思ってたんだ」
ばかばかしいけど。ショートカットがふわふわ揺れている。
「やになってさ。色々なことが、たくさん、やになって。でもね、なんか、依子と会って、死にたくなくなった。だから、もう五年も、こうしてるの」
それから彼女は僕の手を強く握った。びりびりとした。
「ほんとはさ」
言いかけたところで、あかりさんの足が止まった。僕も半歩先で止まって、あかりさんのほうに振り向いた。
「ちょっと、怖かった。依子、今から死ぬのかなって」
あかりさんは真面目な顔をして言った。
「依子は死んだんだよ」
僕は言った。
あかりさんは、面食らった顔をしていた。僕もまた、自分で自分の科白に驚いていた。
十秒か、十分か、それとももっと長い時間だろうか。空白が僕とあかりさんの間に落ちて、空が少しずつ、明るさを得ていった。
「死なないで」
あかりさんは言った。
「依子が死んでても、リョーヘーさんが死んでても、今のあなたは、死なないでいて」
じゃなきゃ、私また、死にたくなる。私、死にたくなりたくない。あかりさんは目頭を熱くしていた。
ずるいな、と僕は思った。あかりさんはずるい。綱渡りをしている僕の足元に、大きなトランポリンを置いてしまった。とても、ずるい人だ。
朝日がやってきた。風景を掻き消していく。 僕は目を細めた。たまらなくなって、あかりさんを引き寄せて、抱きしめたままくずおれた。
「……依子?」
波が打ち寄せて、脚が濡れた。外はきれいに晴れているのに、僕の視界は、土砂降りの雨だった。
夏の最初の宿泊客は、一週間後であった。僕はたくさんの準備をした。あかりさんも、いつになく精力的に僕を手伝ってくれた。
いつもこうだったらいいのに、と僕が言うと、じゃあ今度からそうする、と、やはり気味が悪いくらい素直に、あかりさんは答えるのだった。
「そういえばさ」
雑巾を絞りながら、あかりさんは僕に訊ねた。
「男だったのに、急に女の格好したり、女の仕草したり、そういうのって、どんな気分なの?」
「そうだね……すこし、気恥ずかしかったかな」
ふうん、と、あかりさんは生返事をして、それから、羞恥プレイってやつだ、と茶化すように言ってきた。
「やめてよ」
「あ、耳真っ赤」
あかりさんが笑う。僕は怒ったふりをして、でも結局、おかしくなって笑ってしまうのだった。
窓際で、ちりん、と音を立てて風鈴が揺れた。夏がやって来るのだ。入道雲に乗って。そう遠くないうちに。僕はまた、夏を迎えるのだ。依子の身体で。依子の命で。
悲しいが、もうそれだけではない。苦しいが、もうそれだけではない。汚れるが、もうそれだけではない。
風鈴が、ふたたび鳴った。ふたたびの命をもって、ふたたびの依子になって、僕はそれを、聞き入れるのだった。