夜中、不意に目が覚めて、マコと寝たのは今度で何度目だろう、などと、考えた。
幼稚園のお泊まり会が一回目。小学校のキャンプが二回目。中学の時に家出して、マコの家に転がり込んだのが三回目。
そんなふうに記憶をたぐりながら、私は立ち上がった。
事をなしたら、そのまま疲れて眠ってしまったんだろう。身体じゅうがべとべとする。私はとりあえず自分の中に埋まったままのディルドを引っこ抜いて、風呂場へ向かった。
何回、したんだっけ。思い出そうとするけれど、できない。頭の芯のあたりが、かたちをうしなっていた。
浴室の折り戸を開けて、中に入った。シャワーを浴びる。汗も、それ以外の液体も、お湯と一緒に全部排水溝へ流れていった。
私はそれを見た。見ながら、マコのことを思った。
マコは私の幼馴染みである。そして、今のところ、恋人でもある。
恋人になったのは、大学に入った頃のことだった。どちらから告白したわけでもなく、ただ、なるようにして、なった。間もなく、私たちはひとところに寄った。
マコが変わったのは、それから半年経った後のことだった。
稀なる男は、女になるという。女になったら、もう死ぬまで女のままらしい。おとぎの国の話のようで、しかしそれは実際、この世にあるのだった。病として認められていて、小難しい名前もついている。
そしてマコはその、稀なる男、だったのだ。
関係は、今もそのままだ。まだ、恋人をしている。ひとところにとどまって、飯を食べて、寝る。そして時々、セックスをする。そういう、恋人を、している。
いつか終わってしまうのだろう、と、マコが女になってしまった時は、思っていた。けれどもう、そう思ってから二年も経っている。
待ち遠しく思っているわけでは、もちろんない。そうじゃないのだけど、時折やってくる寄る辺のない不安が、私を息苦しくさせるのだった。
私はシャワーを止めた。身体の水気をとってからバスタオルを巻いてリビングに出ると、流しのほうに灯りが点いていた。覗いてみると、マコが鍋を火にかけていた。
マコは、ショーツとTシャツしか身につけていないようだった。流しの、弱々しい灯りの下で、マコの白いふとももがぼんやりと浮かんでいた。
「なにしてるの」
「スープ、温めてる。なんだか小腹空いちゃって」
そう答えて、マコははにかんだ。似合いすぎてるおかっぱがはらりと揺れた。
私はマコの顔を見た。マコの顔は、あっさりとしている。それは、男だった頃から変わらない。けれど今のマコの顔には、昔には無かったなにがしかの幼さが混じっていて、それがマコの顔をか弱く見せている。
私は不安になった。それはいつものことだった。どうしたらいいんだろう、と、無闇に思ってしまう。
「キミちゃん、どうしたの」
マコに呼ばれて、はっとする。
「いや、あの……ほら、マコもシャワー浴びて来なよ。べたべたしてるでしょ。スープは私が温めとくから」
私は場を取り繕うように言って、マコを風呂場へ追いやった。それから、受け取ったおたまでもって鍋の中身をかき混ぜだした。
マコはスープをよく作る。レシピも見ずに、思いついた物を思いついただけ鍋に投げ入れて、沢山作る。
なんでそんなにスープばっかり作るの、と、一度だけ訊いたことがある。
「楽になるんだ」
マコの答えは、ただその一言だけだった。
楽になる。
何が楽になるっていうんだろう。心だろうか。身体だろうか。訊いた時はああそうと言ってさらっと流してしまったけれど、よくよく思うと、わけがわからない。
スープがちょうどいい塩梅に暖まってきたので、いったん火を止めた。それから私は寝室に戻って、寝間着に着替えた。
私の寝間着は、むかしマコが着ていた、男物のTシャツである。ゴミ捨て場へ運ぶ直前に、私がゴミ袋の中からひきとった物だ。
女になってしまってすぐ、マコは服をつぎつぎと捨てていった。使えそうなのはとっとけばいいじゃん、と私は言ったけれども、マコは聞く耳を持たず、結局ぜんぶゴミ袋に詰め込んでしまったのだ。
あの時のマコの表情を、今も覚えている。唇を横一文字にきゅっと引き結んで、ゴミ袋と洋服に視線を行ったり来たりさせている、マコの顔。女のマコのそういう表情を見るのは、それっが最初で最後だった。
あの時マコは、本当に洋服だけを捨てたんだろうか。今でも、時々考える。服と服の間に、それ以外の物をこっそり忍び込ませて、捨ててしまったんじゃないんだろうか。
考え事を頭に残したまま、私はリビングに戻った。リビングでは、既にシャワーを終えたマコがスープをふたつのマグにより分けていた。
「キミちゃんも飲むでしょ?」
うん、と頷いて、私はソファーに腰を下ろした。テーブルライトのスイッチを入れると、光が淡く広がった。
マコが私の隣に座る。体温が肌にまとわりついてきて、首筋がじわりとした。
「はい、どうぞ」
目の前に、マグが差し出された。萌葱色のマグが、頭から湯気を立ち上らせている。湯気はその身をよじらせながら、いつしか空気と解け合って消えた。その始終を見届けてから、いただきます、と私は言った。
マグの中を見る。ポタージュスープのような、クラムチャウダーのようなそれは、けれどそのどちらとも違う。
マコのスープは、いつもこんなふうだ。材料はその時々で大なり小なり違うのに、まわりまわって、いつもここに戻る。
一度、それについて、不思議だね、と言ったことがある。でもマコは、私のその台詞に対して、未だはっきりとした返答をしていない。
もしかして、マコはそれを不思議だと思ってないんだろうか。スープを飲みながら、私は思った。
隣にいるマコの顔を、もう一度見てみる。同時に、ベッドの中のマコを、思い出してみる。顔を真っ赤にさせて、切なそうにして、よがる、私の恋人の顔。
マコは今、女だ。男じゃ、なくなっている。私は今一度、それを認識した。
「ねえ」
マコを、呼ぶ。マコは顔を上げ、私のほうを見た。
「マコは、自分が女の子になったこと、どう思ってるの」
それは、訊いてるようで、今まで一度も訊いていないことだった。マコがあんまり自然に女の子しているものだから、すっかり訊きそびれていたのだ。
「どうって」
「なんか、あるでしょ」
スープの味が変わらないことみたいにどうでもいいなんてこと、無いでしょ。頭の中だけで、私は続けた。
しばらくの間、私とマコは見つめ合った。マコは黙ったままだ。
「あの」
「キミちゃんは、かわいいね」
催促しようとする私の言葉を遮るようにマコが言った。一瞬何を言われたのかわからなくって、わかった時には、背筋がぴりりとした。
いきなり何言ってるの。そう返そうとして、今度は口を塞がれた。スープのにおいとシャンプーのにおいが、目の前で混じり合った。
キスは一瞬だった。マコの顔は、すぐに離れてしまった。
「キミちゃんは、おれのこと、好き?」
キスをやめた途端、マコはまっすぐな顔で訊ねてきた。ごまかさないでよと抗議しても同じ事を訊かれ続けるので、私は結局、うん、と言って頷いた。惚けたような声が出て、恥ずかしかった。
「おれも、キミちゃんのこと、好きだよ」
また、頷いた。
「じゃあ、いいじゃん」
え、と私が言うより早く、マコは私を押し倒した。ソファーのスプリングが、みしりと音を立てた。
いきなりどうしたのと言おうとして、さっきと同じように口を塞がれた。こんどのキスは長くて、じゅくじゅく、私にしみこんでいった。
息が苦しくなって、私はマコの顔を引きはがした。呼吸が犬みたいに荒い。
「マコはずるいよ」
「いいじゃん、ずるくたって」
マコが私のTシャツの中へ腕をくぐらせてきた。私もムキになって、マコのTシャツの中に自分の腕を押し入れた。そしてそのまま、雪崩れるように、なった。
マコは私を激しく責め立てた。私はそれに仕返してやろうとして、しかしそれができなかった。はぐらかされた時の、肩すかしのような気持ちが、スポンジみたいな脳みその中で、行き場を失っていた。
マコの顔を、今度は自分のほうから引き寄せた。言葉を忘れてしまえるくらい、つよいキスをする。身体じゅうが、じゅくじゅく、していく。
行為は眠るまで続いた。スープはきっと、冷めていた。
次に目が覚めた時には、もうすっかり朝だった。マコは裸のまま、床で丸まって寝ていた。私も私で、Tシャツを蒲団の代わりにして、裸のまま寝てたみたいだった。
何回、したんだっけ。思い出そうとするけれど、やっぱりできない。
マコを見下ろす。不安そうな顔をして、マコは丸まっている。
「こわいよ」
ふいにマコが呟いた。慌ててどうしたのと言ってみたけれど、返事らしきものは返ってない。どうやら寝言らしかった。
「キミちゃん、おれ、こわいよ」
また、マコが呟いた。さっきよりもほっそりとした、か弱そうな声色で、呟いた。私ははっとした。それから、やっぱりマコはずるいと思った。
マグを手に取る。午前二時のスープはすっかり冷めてしまって、表面にはうっすらと膜が出来ていた。
それを、私は飲み干した。マグをいっきに傾けて、ぜんぶ、飲み干した。寝起きでひからびた食道に、ねっとりとしたそれがへばりついて、きもちわるい。
じゃあいいじゃん、と言うマコの顔を、思い出した。
「ぜんぜんよくないくせに」
今そこで眠っているマコの顔を見ながら、私はつぶやいた。
なんだよ。私はそんなに頼りない女か。訊いてみたくなる。なるけど、たぶんいつになったって、私はそうしないだろう。泣いたりするのは、苦手だから。
身体に覆い被さっていたTシャツをどかして、マコの上に掛けた。それから私は、ふたつのマグを流しに持って行った。今日という日が、もうすぐそこまで、忍び寄っていた。