人生を振り返ってみて「正しかった」と思えるような選択肢が、はたしてどれほどあっただろうか。
シーツを手繰り寄せながら、私はふと、そういうことを考えていた。そして、そんなものなどほとんどなかったということを、確認したのだった。
それは、今までに何度となくやっていることのひとつだった。どうしようもないほどの、こころのふるえを鎮める為に。
そう。私のこころは、今まさに、ふるえていた。なにせ、はじめての夜だったのだ。
三十九年の人生で、ひとたびも経験したことのない、濁流のような、夜。
胸に手をやると、些か貧相な乳房のうらがわで、私の心臓は、まるで私とは別の生き物になったかのように、ぐるぐるとうなっている。
昨晩の始終を、つらつらと思い出してみる。固くて細い、神経質そうな指が、たどたどしく、私の輪郭をなぞっていくさま。そして、覆い被さって、みなぎり、ひらめくまでを。
後悔があるわけでもない。はじめてを、大事にしていたわけでもない。体験それ自体も、未知のもので新鮮ではあったのだが、おしなべて変わっていたわけでもなかった。相手とも、深く感情を通いあわせた仲ではない。大人同士の、些細な火遊びである。おたがい、新参者ではあったのだけれど。
それなのに、と私は思う。それなのに、なぜこんなにも、私はこころをふるわせているのだろう。
こんなことは、今迄に一度もなかったはずだ。
ふたたび、私は記憶を掘り下げていく。私が私になった、少女になった、その瞬間からの記憶を。
私が私自身のことを「私」と呼ぶようになったのは、十九になってからのことであった。自然に、あるいは社会の流れの中でしかたなく、私はそうなっていった。
では、それまではどのように呼んでいたのかというと、ある時は僕であったし、またある時節には、俺であった。
といっても、それは私が男勝りであったというわけではない。私はその時、男だったのだ。まやかしの、作り話のようにも聞こえるけれども、たしかにその筈だった。
あれは十五か十六のあたりだったろうか。ひどい雷雨の朝、その瞬間から、私は女になった。
お前は元々女だったろう、と周囲は言った。私にとってそれは非常に信じがたい話だったのだが、しかし現実に、私は産まれたときから私であった。俺も、僕も、存在しえないものであった。
半月ほど状況に反駁して、それからは諦めた。すべて受け入れて、私を私と認めたのは、セーラー服を脱いだ日のことだ。
私は大学へ行った。そこで、勉強をしていたのか、勉強するふりをしていたのか、とかく四年間つとめあげ、小さい広告会社に就職した。
会社では事務員をやった。平たく言えば、雑用係である。会社におけるメーンの業務以外のあらゆる雑務が、私の机の上に並べられた。
それを私は、日々、端から順に処理するのだ。月曜から金曜まで。朝から晩まで。
そうこうしているうちに時間はすぎてゆき、いつの間にか私は、三九のおばさんになっていた。そして、女というものの生活は、私の身体に、すっかり染み付いていた。
そこで、私ははたと立ち止まり、気づいた。私の人生は、この今の、女としての二十余年は、あまりにも無意義ではないか。
気づいた瞬間、しまったと思った。もう、後戻りはできない。
仕事を終え、帰宅して、化粧を落とす。鏡の前に小皺が並んだ。私は泣きたくなった。取りこぼしてしまったのだ。女という人生に反駁してしまったがゆえに、潔くならなかったがゆえに、そのなかの貴重で特別な時間を、無為に消費してしまったのだ。
男なら。私が私などではなく、ちゃんとずっと、僕であったなら。俺であったなら。湯船に、枕元に、言葉を並べたて、じいっとかたまった。そういうことを数日繰り返し、春になってやっと、開き直った。今できることを、今やるべきだ、と。今女であるなら、女としていられるうちに、やれることをやろう。
そうして、私はこうなった。人生の中でもっとも動物的な、ひとさじの時間を、無理やりに、つくった。
傍らに視線をやる。彫りの深い、すじのある寝顔。ヒロオさん。私の同僚で、そして、はじめての人である。
彼は、やさしい男だった。おっとりした男だった。要するに、彼は好い人なのだった。
そういう人と、私は遊びをしたのだな。
あてどない罪悪感と、がらんとした気持ちが、ないまぜになって、こころがくさくさしていく。
あほだな、と私は素直にそう思った。こんなものは粗雑なだけで、結局なにも残りはしない。
自分の膝を抱き寄せる。気を紛らわそうと視線を横にやるが、どこを見たって昨日の残骸があるばかりで、くさくさしたこころは、いっそうくさくさするばかりなのだった。
男のままだったら、こんな悲しい気持ちにならずにすんだんだろうか。
片付けたはずの言葉が、また私を取り囲む。そうしているとだんだん辛くなってきて、ついに、泣き出してしまった。
泣き出すと、止まらなくなった。女だからなのか、歳をとったからなのか、私がただそういういきものだからなのか分からないが、泣いたら泣いただけ、輪をかけて泣きたくなって、それでまた泣いて、また泣きたくなった。
「三倉さん」
小一時間して、声がした。ヒロオさんの声だ。いつのまにか、起きていたらしい。
「三倉さん、どうかしたんですか」
ヒロオさんの声は、おどおどしていた。もとよりそうなのだけど、今はよりいっそう、そういう響きだった。昨晩のことに何か、負い目のようなものを感じているのかもしれない。
「ちがうんです。ちがうんです」
私は洟をすすりながら、言葉をくりかえした。ヒロオさんは黙って、私の背中をさすった。
「三倉さん」
「ちがうんです。私、おかしいんです。ずっと、おかしいんです。ずっと前から……こどもの、頃から……」
ごつごつした指の、ぎこちない動作。夜のベッドの中で私をぞくりとさせたそれが、今度は私の背中を、不器用に暖めていた。それは日の出まで続いて、そしてその間中、私は泣き続けた。
チェックアウトを、昼まで延長した。しばらくして落ち着いてから、私たちはシャワーを浴びて身支度を済ませ、下のレストランで昼食をとった。
昼食までのあいだ、私はヒロオさんに謝りっぱなしだった。ヒロオさんは笑って許してくれたが、それでも心臓はせわしなく、肺は苦しかった。
昼食を済ませた後、二人でホテルを出た。駅までは、歩いて四、五分といったところである。そこに到着してしまえば、あとはもう、互いの家に向かうのみである。ヒロオさんは東へ、私は西へ。それで仕舞いである。
「本当にすみませんでした。こんな時間まで、つき合わせてしまって……」
私は重ねて、ヒロオさんに謝った。ヒロオさんは、何も答えなかった。やはり、怒っているのだろうか。それとも、私があまりに、しつこかったのだろうか。
そう考えていると、急にヒロオさんが立ち止まった。半歩後ろで俯いていた私はそれにうまく反応できず、彼の背中にぶつかってしまった。
「ヒロオさん、あの」
彼はくるりと、私のほうに振り返った。
「大丈夫です」
でも、と言いかけた私を制して、彼は言った。
「そうじゃないんです。……三倉さんがどういう人生を歩んできて、どういう経験をしてきたのか、僕には判断つきませんけど、でも大丈夫ですよ、三倉さんは。三倉さんなら、きっと大丈夫です」
根拠のない言葉だった。本心であるかどうかも、わからない。しかし私は、なぜかひどく、彼の言葉に感動してしまったのだ。
ほうけてしまった私の顔に納得したのか、ヒロオさんは大きく頷いて、それから前に向き直り、ふたたび歩き出した。
虚をつかれて、気が抜けてしまった。張り詰めていたものがはきだされ、こころがしずまり、表皮がぼろぼろとはがれた。
見上げる。春の日曜日の、水色の空である。
駅についたら、どうしようか。西へ行くしかないのだけれど、もしかしたら、それとは別の……もう一方の、選択肢があるのではないだろうか。
そうだ。そうしてみるのも、もしかしたら、いいのかもしれない。
日曜日の空の下、ヒロオさんの背中のうしろで、泣きはらした瞼の奥で、私は東へ行くことを、すこしずつ、考えていた。