フカミオトハ
さよならと君は言った
扉の先には、誰もいなかった。
放課後の美術室は静かで、暗くて、とても寂しかった。キャンバスのないイーゼルが部屋の隅にポツンとたたずんで、遅すぎた僕を見つめている。
ふわりと視界がかげった。僕自身の吐いた白い息が無人の美術室をただよって、すぐに静寂の中に溶けていった。
――ああ。
「せんぱい……」
泣いているみたいな声になった。ほんとうに泣けたらどんなに楽だったろう。ただ悲しんで、ただ悔やんで、ただ恋しくて泣くには、僕らはあまりに複雑だった。
こうして先輩は僕の前から姿を消した。
結局僕は、さよならすら言うことができなかったのだ。
◇1
先輩の人柄を一言で表現するのは難しい。
飄々としてつかみどころがなく、からかうようなことを言ってはクスクスと笑っている。不思議で、妖しくて、そのくせどこか抜けていて親しみやすい。そういう「いわくいいがたい」人だった。
そして何より、冗談みたいに絵が巧かった。
「……すっげえ」
「君はいつも、同じようなことしか言わないねぇ」
「だって、すごいんスもん。なんつーか……すげえ」
「小学生だってもう少し情緒を語るよ。何か違う表現はないのかい」
「言葉にできないんですよ」
「君、実は馬鹿にしてるんじゃないだろうね?」
言葉にできないというのは本当だ。技巧的にももちろんうまい。しかし彼女の絵の、本当の凄さは、そういうわかりやすいところにはない。
どこか繊細で壊れやすく、風が吹けば乱れてしまう、飴細工で造られたような世界がそこにはある。呼吸すらためらわれるほどの、か細い美しさ。僕は絵に詳しいわけではないが、彼女が美術部のないこの学校に来たことを惜しいと思ってしまう。それほどだ。
「いくらなんでも抒情にすぎるだろう。実は詩人だったんだねえ、君は」
そういう先輩は、たぶんあの時、照れていたのだろう。
僕は先輩に憧れていた。
その仕草に、声に、生き方に、絵に、それを生み出す、たぶん、こころの中心みたいなものに。
「まいったね」
先輩が困ったように、本当に困ったようにそう言ったのは、卒業を半年後に控えた九月の入り口だった。
「本当に、まいった」
少し背が高く、指が太く、体格が大きく、顔つきがいかつく、声が低くなった先輩は、女子の制服ではなく野暮ったいジャージを着て、かろうじて笑いながら言った。
「男になってしまったよ」
夕暮れだった。晩夏の熱気は衰えず、しぶといセミたちの鳴き声が僕らの無言を責め立てていた。傾いた太陽が窓から無遠慮に焼けた光を投げかけて、キャンバスを照らしている。これでは色味が変わってしまう。赤いフィルターのかかる中では、先輩の描く繊細な世界は台無しだった。
「どうしようね?」
僕は答えられなかった。
この時も、何も答えられなかった。
◇2
とつぜん性別が変わる――異性化症というその病気のことを、僕は知らなかった。正確に言うと忘れていた。小学校の時だったか、社会科見学の類で罹患者の講話を聞いたことを思い出したのは、先輩がそうなってからひと月ほど後のことだ。
性別が変わることと、人間が変わることは同じじゃない。
講話を担当した女性――元男性――はそう言った。ひとの本質は変わらない。男だろうと女だろうと「自分」は常にひとりなのだと。
当時は何も思わなかった。遠い世界で珍しい病気に罹ったひとが、元気に生きているという、よくある話を聞いただけだったからだ。
今は。
「――やあお疲れ。相変わらず死んだ魚のような眼をしているね」
今は――なるほどそうなのかもな、と思っている。
「先輩は相変わらずですね」
「不満かい?」
「いや別に」
もう十月にもなるが、先輩は袖をまくって血管の浮いた二の腕をさらしている。胸元を少し開いたワイシャツからは鎖骨が覗いて、ドリンクを飲み下すごとにゴクリとのどが上下する。
「なに見てるの」
「いや別に」
しおらしいところを見せたのは最初だけ。さすが先輩、自分の変容にはすぐに慣れたようだった。「勃起ってどうすれば治まるの?」とか本気とも冗談ともつかないメールを夜中に寄越すようなことも、もうない。
「正直、もっと引きずるものと思ってましたよ。学校だって変えるのが普通らしいですよ」
「知らない誰かのフツーなんて知ったことじゃないよ。自分のカラダがどう変わってもね、たいていのことは慣れるものさ。三年の秋なんて、ほとんど卒業しているようなものだしね」
それはさすがに言い過ぎだと思うが、強がりというわけでもないのだろう。結局、
「性別がどうかなんてことより、この絵の仕上がりの方が何倍も大事だよ」
ということなのだ、この人は。
「なるほどね」
「ふふ、泣きわめいて叫び散らすのを想像してたのかい? 君の胸に顔をうずめて、『こんな体じゃ抱きついても気持ち悪いだけだよね』とか言えばよかったかい?」
「なんでそんなに具体的なんですか」
「すると君は首を振って言うわけだ。『先輩のあたたかさは、ずっと変わりませんよ』とね。これはあれだろう、BLってやつだろう?」
「なんですかそれは。そもそも僕は先輩のあたたかさなんて知りませんから」
「私が冷たいってこと?」
「いやそうじゃないですけど」
「君は素直だねえ」
性別が変わっても先輩は先輩だった。まったく、先人の言葉は偉大である。
「君のほうこそ、ショックだったりしたかい? 憧れの先輩が男になってしまって」
「………」
知って言っているわけではないだろう。けれど確かに、僕は先輩に憧れていたし、思いのほかすんなりと彼女の(彼の)変化を受け入れていた。
それは僕がドライだからでも、ましてやホモだからでもない。
「僕、先輩の絵が好きなんですよ」
「な、なんだ突然。びっくりさせるなよ」
「そういうことです」
「どういうことだい……?」
そう、僕にとって、先輩が男か女かは重要じゃない。このひとの、あまりにも繊細で、美しい、か細く輝く世界にこそ憧れていたのだから。
それはずっとわかっていたことだったけれど、同時に発見でもあった。このひとの絵が美しくある限り、僕はこのひとの輝きを愛せるのだ。
かくして先輩は男になった。そしてそれは、僕らの間では大した意味を持たなかった。
僕らがその意味に気付くのは、もう少しあとのことだ。
◇3
十一月になった。
秋口にはまだまだ暑かったのに、もうコートが手放せなくなっている。去年は「手がかじかむのでカイロが欠かせない」と嘆いていた先輩だったが、今年は平然としている。これが男になったせいなのか、それとも去年よりは暖かいからなのか、そのへんはよくわからない。
僕には何もわからない。
目の前にあるものが何を意味するのかも。
「………」
絵の具の汚れもそのままに、先輩は大きな掌で口元を覆っている。何かを考えているようにも、表情を隠そうとしているようにも見えた。視線はまっすぐキャンバスに。まったく揺らがず、完成した絵を睨みつけている。
男になって二か月、先輩は二枚の絵を完成させた。本人いわく手を慣らすための習作だという話で、これは本当だろう。異性化してなにより変わったのは肉体だ。指先の感覚が狂うだけで絵にも影響が出る。
――だからだ。
きっと、だからなのだ。
「どう思う」
冷たい声だった。飄々とした、先輩のものとは思えない。ゴクリと生唾を飲み込む音がする。誰が出した音なのか、一瞬わからなかった。
二枚の絵はどちらも巧かった。
技巧的には、僕に言えることは何もない。モチーフの選び方も、構図の切り取り方も、絵の具の使い方も、色の乗せ方も、何もかもハイレベルで、それらがきちんとまとまって作品を形作っている。すごい絵だ。
すごい絵だ。
「……わ、かりません」
絞り出すような声になった。先輩は視線をそらさず「そうか」とだけ言った。
十一月の早すぎる夕日が、部屋を切り抜いていく。朱に染まる先輩の絵を見て、僕はぼんやりと、赤いな、とだけ思った。
先輩の絵はどちらもすごかった。
うまくて、すごくて、それだけだった。あの繊細な世界も、か細い美しさも、そこには何もなかった。
◇4
雪が降っていた。
ちらちらと舞い落ちる白化粧は積もるほどではなく、道の端に、建物の陰に、ほんのすこし汚い雪山を作る程度で消えてしまう。この雪も、先輩だったら洒落たふうに表現するのかなと、僕はぼんやりと思った。
――先輩は、今も絵を描いている。
一年も終わりにさしかかり、三年生たちは目の前の受験にナーバスになりながらも、必死に追い込みをする頃合いだ。先輩の進路は知らないが、ここひと月、鬼気迫る表情で一枚の絵にとりかかっている。
いつ行っても、いつまでも、ずっと描いている――まるで命を燃やすように。
先輩にとって重要なことはそれだけなのだろう。それが最初にあって、最後まで、それがなければいけない。
欠けてしまっては生きていけない、多分、人生の理由なのだ。
「なあ、今日どうする?」
放課後の教室、窓の外に雪を眺めていた僕に、クラスメイトが声をかけてきた。受験シーズンも一年生には関係ない。僕は「行くよ」と答えた。
ここ数日、何人かのグループでよく遊びに行く。カラオケだったりゲーセンだったり学生らしい放課後だ。
美術室は行っていない。
絵の具のにおいが充満する狭い部屋で、先輩の背中を見続けるのに疲れてしまった。それにきっと、僕がいない方が先輩も集中できるだろう。
先輩は、すごいひとだ。
強くて、賢くて、いつかきっとやり遂げる、どこかに辿りつく人だ。揺るがない世界を持っていて、それを表現することができる。僕の憧れた人だ。
だから大丈夫。今はそっとしておこう。絵が完成すれば、いつもどおりに笑ってくれる。「しょうがないやつだな、君は」なんて言って、ジュースでも奢らされるかもしれない。仕方がない、駅前の喫茶店あたりで、でかいパフェでもごちそうしよう。
きっとそれだけの価値が先輩の絵にはあるに違いない。
違いないのだ。
**
ぼんやりとした正月を通り過ぎて迎えた新学期初日、始業式の体育館で先輩を見つけた。
それが先輩なのだと、最初は気づかなかった。嫌悪を隠さないざわめきの中で、ぽつんとたたずむ先輩はひどく汚かったからだ。
ぼさぼさの髪、充血した目、まるで整えられていない髭、肌の上に白い粉のようなものまで浮いている。人相が変わるほどひどい隈を親指でゴリゴリと擦る姿は、まるで浮浪者そのものだった。
ホームルームが終わって、すぐに美術室に行った。
先輩はいなかった。絵だけがあった。冬の研ぎ澄まされた空気の中で、きっと冬休みの間も描き続けたのだろう魂のこもった一枚が、ぽつんと立ち尽くしていた。
「ひさしぶり」
嗄れ声。振り返ると――ふりかえると、先輩が笑っていた。
「どうだい、その絵」
「……あ、ああ……えっと……」
良いと思います。
たぶん、僕はそう言った。先輩は笑った。「そうか」とほほ笑んだ。ひどい顔だった。ホラー映画のゾンビが笑ったら、こんなふうかもしれない。
「そうか……」
「えっ……」
――涙を。
その表情のままポロポロと涙をこぼして、先輩は僕の脇を通り過ぎた。キャンバスを抱えて、美術室の端まで運び、完成品の棚にそっと収める。
「この絵、良かったか……」
小さい背中だった。子供のようだとすら思った。棚の前でしゃがみ込んで、丸まって、震えながら、先輩はうなり声のような嗚咽を漏らした。
「……せ、せんぱい……」
夕焼けが遠い。世界が明るすぎる。震える先輩に、かける言葉が見つからない。
「ひとりに……」
かろうじて聞こえた言葉に、僕は安堵の息をついた。これでここから離れられる。先輩から逃げられる。
何も言わず、僕はその場を離れた。逃げ出した。
――先輩はすごい人だ。
きっと立ち直る。僕なんかがいても邪魔なだけだ。傷つけるだけだ。先輩ならきっと。
きっと。
そうして次の日。
先輩は学校を辞めた。
◇5
扉の先には、誰もいなかった。
放課後の美術室は静かで、暗くて、とても寂しかった。キャンバスのないイーゼルが部屋の隅にポツンとたたずんで、遅すぎた僕を見つめている。
ふわりと視界がかげった。僕自身の吐いた白い息が無人の美術室をただよって、すぐに静寂の中に溶けていった。
――ああ。
「せんぱい……」
泣いているみたいな声になった。ほんとうに泣けたらどんなに楽だったろう。ただ悲しんで、ただ悔やんで、ただ恋しくて泣くには、僕らはあまりに複雑だった。あまりに複雑で、僕は、あまりに卑怯だった。
震える脚を前に出して、震える指先で棚を探る。先輩の絵はほとんど全て残っていた。なくなったのは三枚だけだ。
何かを言いそうになって、僕は唇を噛んだ。言うべきではない。僕には何も言う資格はないのだ。だって、こうなることは何となくわかっていたじゃないか。
先輩が最初の一枚を描いた時点で、わかっていた。
僕は逃げ出したのだ。先輩から、先輩の絵から、先輩の変化から。
でも。でもさ。
僕は先輩に憧れていた。
憧れていたんだ。
その仕草に、声に、生き方に、絵に、それを生み出す、
たぶん、
こころの中心みたいなものに。
あこがれてたんだよ。
「……」
イーゼルに指をかける。美術部がないこの学校で、油絵を描く人はほとんどいない。放課後の美術室にいりびたって絵を描くのなんて先輩くらいだった。
僕は卑怯者だ。
この浅ましい後悔をどうすればいいのか、他には思いつかなかった。ただ、僕はほんとうに、先輩の絵が好きだった。
好きだったんだ。
◆◆◆◆◆
その美術展は、毎年、地域の小さな美術館で行われている。
参加者は小学生から大学生まで。大小巧拙を問わず様々な絵が飾られる学生限定の展覧会だ。
――青年がひとり、一枚の絵に目をとめた。
放課後の美術室を描いた、どこか寂寥感のある夕景だった。技術的には拙く、美術的にもさほど見るべきところはない、凡庸な一枚だ。少ない客のほとんどが素通りするような絵だった。
絵の下には、タイトルと作者の名前が貼られている。
「………」
たった四文字の短い言葉に、爪の中に染み込んだ絵の具が触れる。懐かしむように指を這わせ、
「――しょうがないやつだな、君は」
かすかなつぶやきだけを残して、青年は、そっとその場を離れた。
さよならと君は言った・おわり