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 私はアイスコーヒー、彼はカフェラテ。オーダーを取り厨房へ向かうウェイトレスを見送ってから、そっけなさそうに彼は切り出した。
 わかっているのでしょ。こぼれてしまいそうな言葉をぐっと飲み込んだのは、彼の白く細く美しい指が、落ち着かなさそうに震えているのを横目で見ていたから。
 話をしたい、どこかで会いたいと伝えた私に対して、この喫茶店にしようと提案したのは彼の方だった。きっと、はじめて二人きりで出掛けた日のことを思い出したのだろう。
 通り雨に叩かれて傘を差す間もないままにずぶ濡れのふたり。私の姿を見て吹き出してしまった彼。へそを曲げた私。謝りながら、名物のパルフェをごちそうしてくれた彼。以前から来てみたかったのだと静かに興奮する私に、今日一番嬉しそうだと笑っていた彼。
 外はまだ明るいが、予報は芳しくない。この店を出ていく頃には、もしかしたら降り出すのかもしれない。あのときのように、突然に。
 長い時間を彼と一緒に過ごしてきた。私も彼も幾分か変わった。
 窓の外を眺めながら続いていた沈黙を破ると、彼が私を凝視した。
 終わらせてしまおう。これ以上、変わってしまうその前に。
 こわばっていく彼の表情で痛む私の良心を無視しながら、私も彼を見つめ返す。今このときの彼の姿を瞼の裏に焼き付けるために。

 自画自讃になってしまうが、振り返ってみても、なかなかお似合いの二人だったと思っている。
 出会ったきっかけなんてのは、よくある話。お互いに、数合わせで呼ばれた合コンに出席していた。
 直前まで付き合っていた彼氏は、相手を振り回すことにだけは長けていた。今度は振り回す方になってみたい。そういえば、俺が俺がと身を乗り出すことなく、控えめにニコニコとしていた男の子と連絡先を交換していたっけと、しばらくしてから思い出した。そんな些細な気持ちで、私の方から誘い、そして二人は雨に降られ、パルフェを食べ、笑いあったのだ。

 女のわがままを男は黙って許すもの。
 どうも女系家族の出身らしい彼がそれまでの人生で培ってきたそんなポリシーを持っているらしいことを、付き合いが深くなるに連れて徐々に理解していった。
 中肉中背、なで肩猫背の優男といった容姿とはミスマッチに思えた。事実その性格が災いして、異性交友が長続きしたことは無いようだったが、我の強さ故に誰かと付き合うたびに「思っていたのと違う」と言われ憤慨することを繰り返してきた私のような人間とは、割れ鍋に綴じ蓋だったのかもしれない。
 初めて肌を重ねた日、大嫌いな髪をなでてくれたことを私は一生忘れないだろう。
 アメリカ生まれの母方の祖母のことは大好きだったが、彼女に似た、赤く癖の強い髪質に劣等感を覚えながら成長したのも事実だ。家族から受け継いだものだからと、黒く染めることはしなかった分、幼稚園の頃から高校生活に至るまで、他人からとやかく言われることも多かった。
 小学校の頃、からかってきた同級生を引っ叩いて泣かせてしまったことがあった。頬と目を赤く腫らしながら私を睨みつけ、殴られたと大声で喚いていた。先に手を出したのはあなたの方でしょうと先生に言われるがままに謝らされた。きっと先生も、私の髪のこと、よく思っていないんだと、そのときの私はそう感じていた。無論納得なんてしていなかったから、腹立たしさと悔しさとで、頭を下げつつしゃくりあげながら私も相手を睨み返した。お互い、さぞかしおっかない顔をしていたことだろう。
 そんな思い出ばかりの忌々しい赤毛を、彼は素敵だと言ってくれた。祖母以外には家族ですら理解してくれない悩み、突っ張り続けた意地がようやく報われたのだと、生まれてはじめて自分の容姿を誇らしく思うことができた。
 ならばこそ私は、愛してくれた分を愛さなくてはならない。
 私が彼へ強く求めることこそが、彼への愛の証になる。
 そう心に決めたからこそ、うまくやってこれたという自負はあったし、これからだってきっとうまくやっていけるのだと疑いもなく信じていた。
 真夜中に目覚めた彼が、全身の痛みを訴えだした、ある日の夜までは。

 彼の転職、私の職場での配置転換、それに伴う生活リズムの乱れ、エトセトラエトセトラ。
 別れるべきである理由を淡々と列挙しながら、どれもイマイチ説得力に欠けていると、半ば他人事のように思う。それはそうだろう、上げた理由のうちの半分以上は、別れるという結論ありきで考えてたいい加減なものなのだから。
 それでも、どれだけ悩み苦しもうとも、彼は私の要求を飲んでしまうだろうことはわかっている。女(わたし)のわがままを男は黙って許す。そういう生き方しか、彼は知らないのだから。

 土砂降りの夜、呆然とする私の目の前で、彼は苦しみ続けていた。
 指の先からすね毛に至るまで、髪の毛以外の体毛が抜けた全身から、徐々に色素が抜けていく。いつの間にか項が隠れるほどに伸びたせいで、最近染め直したばかりの髪は1/3ほど黒くなっていた。荒い呼吸を繰り返すたびに、ぱきぽきと不愉快な音を立てながら、指が腕が脚が胴体が、見えないなにかに強く押し付けられているように縮んでいく。少食ゆえかしなやかについていた筋肉は、慎まやかながらも確かに存在感のある脂肪へと姿を変え、聞き手で必死に抑え続けている股間は、小さくなった手のひらでも隠し通せるほどに小さくなった、なっている。
 半ばパニックになりながらどうにか119番を掛けた。10分もしないうちに救急隊が駆けつけたけれど、その頃には、すでに彼の変身は終了していた。
 ストレッチャーで運ばれていく彼に同行して、救急車で病院へ向かった。治療室前の長椅子に座っていると、慌ただしく駆けつけてくる中年の男女があった。彼の両親だった。年齢を感じさせつつも小綺麗な印象を与える母親とは対象的な、額が広く皺も深い父親。スーツの似合わない猫背となで肩は彼にそっくりで、彼も30年後にはこんなふうに老け込むのかもと思うと少しおかしかった。
 三人揃って医師の説明を受けた。病名、容態、治療、リハビリ。ようやく穏やかに眠っている彼のいない間に、彼のことについての話を長々と聞いた。治療という言葉が出たとき、治っても男に戻ることはないのでしょうと医師に食って掛かる母親とそれを宥める父親を横目に見ながら私は、さっき想像した30年後の彼の姿を見ることは叶わないのだとぼんやりと考えていた。
 彼の眠る病室で夜明けを迎えた。疲労と緊張が頂点に達し、眠気が襲いかかってきた頃、レースカーテンの隙間からこぼれた陽光で彼は意識を取り戻した。左手を握る母親を安心させるように微笑みかけると、直ぐ側に私がいることに気づき、ただ一言、おはようとだけ言った。その声が、昨晩までの彼の声とは明らかに違うのにそれでも彼の声だとわかる不思議を感じた瞬間、今まで流れなかった涙が溢れ出てきた。

 私の告げた、別れた方がいい5つの理由をすべて聞き終えてから、一拍おいて彼が意見する。一方の私はそれに対する反論を行う。付き合いはじめてから、数え切れないほど繰り返してきた光景だ。私達なりの、愛の確かめ方だったと言ってもいい。ただ今までと違うのは、最後に彼が少しだけ満足そうに、わかったよ、とだけ返してくれないこと。私の反論を聞くたびに少しずつ、うつむく時間が伸びていく。この角度からだと長いまつげも際立って見える。

 身のこなし、化粧、服の選び方、それとわからない程度の女言葉の使い方、生理の対処。病室や彼の自宅、ときには両親の住む彼の実家に一週間も泊まり込みながら、教えられることは全部教えてきた。息子を助けてやってくださいと頭を下げられたということもあるし、逆境に挫けてなるものかと、まるで自分が恋物語の主人公になったかのように闘志に燃えていたのだと、今では思う。
 性ホルモンの分泌が安定し出したことによる、第二次性徴期のようにどんどん体つきが変わっていくことへの不安で、彼は以前よりも幼くなってしまったようだった。医師の説明で、そういった時期があること、それを支える人間が必要であることも学んでいた。それでも私はわがままを、彼に求めることをやめなかった。やめてしまったら、彼が彼でなくなってしまうような気がしていたから。
 リハビリも順調に進み、社会復帰一歩手前というところまで進んでいた。休職可能な期間を終えて、会社をやめざるを得なかったけれど、同じ業種で仕事も見つかったんだと嬉しそうな彼の姿。すべてがもう一度、順調に進みだしていた。愛は勝てるのだという、高らかな宣言は、分厚い雲を突き破って、全世界にだって響き渡る。そう思っていた。

 膝の上で握りしめていたであろうハンカチで目尻を拭きながら、彼は席を立った。化粧室に行くのだろう。ポーチを持ち、私に背を向けた彼の髪が揺れる。
 黒く長く艷やかな髪が靡いた。それを目にした私の胸に起こった感情を認めたとき、もう私はここにはいられないのだと理解できた。

 以前から、素直な髪質だとは思っていた。私とは違い、生まれ持っての髪の色にこだわりは無いようで、少し野暮ったく見えるのを気にして少し明るめに染めていることが勿体ないくらいに。だから、軽い気持ちで、染めずに伸ばしてみたらと提案したのだ。美容室に連れていき、ヘアメイクでさらに見違えた彼を見て、この人が私のパートナーなのだと、半ば見せびらかしたいとすら思っていた。
 なのに。
 美容師は私の希望通りにきっちりと仕上げてくれた。鏡に映る自分自身の姿に、彼も照れくさそうにはにかんでいた。その光景は私が望んでいたことのはずなのに、心中は穏やかではいられなかった。
 そのわけを理解したのは、彼が倒れてから初めての、彼と身を重ねた日の朝だった。ベッドの上で目覚めれば、当然となりには彼の姿があった。私が起きたことで彼も少しばかり遅れて目を覚ます。病室で迎えた朝と同じように、おはようと口にした彼の言葉は、しかしあの日のように私の心を動かしてはくれなかった。目覚める前、寝返りを打った彼の、随分長く伸びてしまった髪を羨ましいと、ただそのことばかりで頭がいっぱいだったのだから。

 内緒で出ていってしまおう。彼が席を離れたすきに二人分の会計を済ませた。
 レジの前で、入店してきた人とすれ違う。傘はまだ濡れてはいないようだったが、窓から見た空はすでにだいぶ厚い暗く見えた。いつ降り出してもおかしくないだろう。折りたたみ傘は持ってきていない。帰宅するまで保ってくれるだろうか。

 私が泣かせ、私を泣かせた同級生をもう一度思い出した。彼女じゃなかったら、きっとそこまで怒ることはなかったのだろう。私なんかとは違う、きれいな髪を持つ、彼女でさえなかったなら。
 私が欲してやまない、決して手に入れようのないものを、彼女は、そして彼は手にしていた。
 そのことに気づいたとき、私は私自身を恥じた。私と何ら変わらず、自分で望んで手にしたものではない。ましてや彼は、人生がひっくり返るほどの病気の結果そうなってしまった。そんな彼の髪を羨ましいだなんて。
 忘れようと思った。こんな感情を認めてはいけないと。だけど、彼の姿を見るたび、どうしてもそのことを思い出す。昔と違い、彼が屈むことなく手を伸ばすことができる頭を撫でるたびに、その髪に触れるたびに。
 私は恐ろしい。いつか彼のことを、いつかの同級生と同じように、羨みが妬みに変わってしまうかもしれないことが、とてつもなく怖い。
 だから別れようと決意をした。恨んでもらっても構わない。私のこんな醜い感情が知られるくらいなら、その方が何倍もマシだろう。
 最寄りの駅へと向かう私の隣を、小学生たちが駆け抜けていく。かすかな塩素の匂い。持っていたかばんから察するに、きっと学校開放日の帰り道なのだろう。プール授業のあと、水泳帽を外し長い髪を払った同級生の姿を思い出した。
 軋む心に頭も胸もいっぱいだったから、不意に腕を掴まれたことを認識するまでやや時間を要した。彼だった。長い髪を振り乱し、歩きにくいだろうヒールの少し高いサンダルで、私を懸命に追いかけてきたのだ。市街の喧騒、こんなにたくさんの人の中でも、私を見つけ出してくれるこの人のことを、私は傷つけているという実感が、送れてやってくる。
 目に涙を浮かべ息を切らしながら、ちょっと広めの額に張り付いた髪を直すこともせず、彼は私に訴えかけた。
「行かないで」

 それは、出会って以来初めて聞いた、彼のお願い。
 私が発した、何百何千何万という数のわがままを受け入れてきた彼の、最初のわがまま。
 こんな酷い仕打ちをしてもなお、彼は私とつながろうとしている。
 だからこそ、私の中に張り詰めていたなにかがはっきりと切れてしまった。頑なに認めたくなかった気持ちをはっきりと自覚してしまった。
 彼は、本当に女の子になってしまったのだと。

 ああ、間に合わなかった。
 アスファルトにドットの滲みが生まれる。それはあっという間に数を増やし、もともとの色がどんなだったか、わからないほどになっていく。人々が、手に持つ傘を、あるいはかばんから出した折りたたみ傘を、広げ始めた。
 きっと、先程の子どもたちと同じ学校なのだろう。子どもたちが、大粒の雨に楽しげな悲鳴を上げながら走り去っていく。家が遠ければ、ちょっとした着衣水泳のあとのようになっているに違いない。
 腕を掴んでいた彼女の手をほどき、私は手を両肩に置いた。私を少し見上げるように見つめ返す彼女の髪は、雨でその艶やかさを更に増しているのに、彼女自身の顔は、涙と雨でむちゃくちゃだった。そんな彼女が愛おしくてしょうがなく、私は彼女を抱きしめた。
 こぼれた嗚咽を聞きながら、美人というのは泣いていても画になるのだと、緊張感のないことを考える。同級生を泣かせた私、私を泣かせた同級生、そのどちらとも違う美しい泣き顔。その泣き顔を笑顔に変えられる、私とは違う誰かに出会ってほしい。

「ごめんなさい」
 だから私は今日、彼女に別れを告げる。
 打ち付ける雨、水たまりを踏み抜く足音の打楽器に、蝉たちの合唱が響く最高の大舞台。その中心で踊りもしないまま、舞踏会の主役をいつまでも独占しているわけにはいかないだろう。
 さよなら。
 追いすがる彼女を振りほどいて、私は歩き出した。彼女が固く冷たい地面に崩れ落ちる音がしても、か細い声で私の名前を呼ぶ声が聞こえても、私はもう振り返らない。
 無心で歩き続けているうちに、いつの間にか駅に着き、雨も止んでいた。再び照り出した西日で、辺りは夏らしく蒸し暑くなっていく。景色がぼやけて見えるのは、陽炎のせいなのか、それとも流れた涙のせいなのか、私にはもうわからなかった。

Rain Dance Music/槇原敬之

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