top of page

 県境の長いトンネルを抜けるとそこは橋の上だった。宙の底が青くなった。だって海だし。
 PAへ向かう渋滞を横目に車は歩みを止めない。上空には夏らしく高い青空が広がってるけど、強風のせいで速度規制は掛かってはいるから、あまりスピードは出せない。運転手はどこか不満げだったが、変化の乏しいトンネルに比べれば車窓の風景は遥かに表情が豊かで、気持ちが良かった。
「あんまよそ見してると酔うぞ」
「トンネルと違って周りに見るものが多いからさ」
「飽きないように素晴らしき我が新車の話を語ってやったろうに」
「俺が車について分かるのは、アクセル踏めば動くってことだけなんだな」
「せめてブレーキ踏めば止まるくらいは知っておいてほしいわ」
 たしかに、あまりに退屈なトンネルを通過する間、積んで来た音楽を聴き流しながら、友人は延々と話をしていた。残念なことに、俺は車のことはてんでわからない。免許すら持っていないし。なので、滔々と語り続けるこいつに適当に相槌を打つことに徹していた。こいつはこいつで、買ったばかりの新車―中古車だけど―の自慢話を誰かにしたくてうずうずしたかっただけだろうからこれで良いのだ。いわゆるWIN―WINってやつ。
「ここまで来といて今更だけど、どっち行くんだ、今日は」
 特に疑問も持たず、誘われるがままにドライブについては来たが、よくよく考えると行き先すら聞いていないのだった。まさか、いいように乱暴されて山中に遺棄されちゃったりして。
「ここいらで捨てるのは怖いし樹海まで連れてって紐にでも吊るすわな」
「ガチな返答の方が怖いわ」
 とりあえずあっちの方だと、指差した方角に目をやる。民家ばかりが続いていて、特段面白そうなものがあるとは思えない。
「特に決まってないんだったらさ、あそこ行ってみたい」
 SNSで名前だけはよく聞く、東京だかヨーロッパだかよくわからないテーマパークの名前を上げてみる。
「んー、保留」
「遠いのか、ここから」
「そこまでの距離じゃないけど、若干方角違うしなあ。前に彼女と行ったことあるけど、言うほど楽しくなかったし、周囲にはなーんもなかったし。ちびっこのいる家族連れ向けって感じかな。花火大会とかあるらしいけど、今日やってるか知らんし」
「そっかー」
「まあ、そこよりも眺めだけはいいとこ連れてってやっから、楽しみにしとけ」
「任せる」
 高速を降りて、下道に入る。ビルが少ない以外は自宅付近と特に変わらない郊外の風景に目をやるうちに眠くなってきた。だんだんぼんやりとする頭の中はしかし、となりのこいつがたぶんなんともなしに口にした言葉でいっぱいだった。
 前に彼女と行った。
 こんな一言で動揺をしている、自分に動揺をしている。
 こいつのいう‘‘前”が、一体どれほどの前を指しているのか、それだけが気にかかってしょうがない。
 今でもその娘と付き合ってるのかって、かるーく尋ねてみればいい。かんたんなことだ。だけどもし、なぜそんなことを気にするのかと聞き返されたら、俺はこいつになんと答えるのだろうか。咄嗟には答えられない。自分でもこの感情がなんなのか、分かりかねているのだから。

「それってデートじゃん」
 昨日の晩、友人にドライブに誘われたと話した時、妹はそうあっさりと結論づけていた。
「体力づくりのリハビリの一環なだけだし」
「兄貴が姉貴になって、病院からも退院して、何ヶ月経ったと思ってんの」
「今までだって何回か行ってるし」
「よくて最初の一回だって、以降はただの口実でしょ」
「あいつとは、ただの友達なだけだし」
「男なんて下心ありきに決まってんじゃん」
「それについては兄貴として男として妹に説教してやらないといけない気がするんだけど」
「今はもう姉貴で女の子でしょ」
「ぐぬぬ」
 言いくるめられてしまった。
 あいつはただの、大学の同期で、さして趣味が合うわけでもないが、なんか馬の合う、ただの友人。それだけだよ、たぶん。
「兄貴がそれでいいんなら、別にいいんだけどねー」
 馬に蹴られる趣味なんてないしねとケラケラ笑う妹にチョップでも食らわそうとしたけど、病気ですっかり小柄になってしまったのでそれは叶わなかった。玉や竿と一緒に兄貴の威厳まで消えてしまった。泣きたい。
「ま、親切にしてくれてるのは確かみたいだし、甘えっぱなしが嫌なら、ちゃんと意思表明したほうがいいとは思うけどねー。いい機会だと思うよー」
 妹に言われてみて、改めて考えてしまう。
 あいつは俺にとってのなんなのか。
 そして、俺はあいつにとってのなんなのか。
 わからなくなって迎える、やつとの最初の遠出で、俺は何を伝えられるのだろう。
 そんなことを考えて悶々とし続けたせいでよく眠れないまま朝を迎えてしまった。遠足の前の日の子供か。
 支度をしていると、家の前に着いたと連絡が入った。玄関に向かう途中で、ようやく起きてきた妹とすれ違う。
「どこか、変なとこないか」
 厳しいスパルタ特訓に耐えて身につけたコーディネイトを、教官にチェックしてもらう。
「悪くないね」
 気合十分じゃんと言われて、顔が熱くなる。いやいや、俺はただ、隣に立っているやつが変な目で見られるようなことがあったら申し訳ないなって思っただけで、他意なんてないんだぞ。
 言い訳を考えているうちに部屋に戻ったと思ったら、何かを取り出してきて俺に投げて寄越した。
「現像して中身が風景写真ばっかりだったら、使用料取るから覚えといてねー」
 どーんと行ってこいと、トイカメラの使い方も教わらないままに玄関から追い出された俺の前には、前々からほしいほしいと事あるごとに口にしていた車を手にしてご満悦な友人が立っていた。

「着いたぞ」
「昨日あんまり寝れなくて、今めちゃくちゃ眠いから無理にいい」
「なんのために連れてきたんだかわかんなくなるから起きなさい」
「御無体な」
「こっちのセリフなんだけど」
 誰のせいで眠いと思ってるんだと怒るたくもなるが、口に出す勇気はないので、やむを得ず眠い目をこすって車外へ出た。
「っわぷ」
 吹き付けてくる風と砂にやられた。あくび混じりの涙目のまま恐る恐る目を開く。芳しい塩の香りを纏った漂着物の多い砂浜の向こうで、風に喜ぶ白うさぎが水面を跳ねていた。
「案外人いないな」
「いいとこなんだけどなあ。まあ風も強いし」
「ぶっちゃけこれだけだったらがっかりなんだけど」
「これを見ても強がってられるかな?」
 もったいぶりながら左手方向を指差している。どれどれ、付き合ってやろう。
「どや?」
「まあまあ、だな」
「も少しこう、感動がほしかった」
「次回に期待」
「善処します」
 とは言え、砂浜の先に立っている建造物の存在感はかなりのものがある。麓にある立て看板の文字を読んだ。仰々しい見た目だけあって、なかなかの謂れがあるようだった。
「上行ってみようぜ」
「登れるのか」
「進入禁止なんて書いてないし大丈夫だろ」
 地図を見る限りでは岬の突端にあるらしい。したがって周囲には何もないから、眺めはなかなかのものだろうが、立て看板に書いてあるとおりなら、竣工からそれなりに年数は経っているようだった。
「てっぺんまで行ったら大地震来て崩落とか嫌だからな」
「その時は抱っこして捕まえてやるから安心せい」
「重いとか言ったらはっ倒す」
「乙女かよ」
「残念ながらな」
 促されるまま、階段を登っていく。上の方から先客が降りてきた。他には誰もいないらしく、俺とこいつで貸切状態らしい。
「なかなかじゃあないか」
 いくつかの踊り場を経ててっぺんへたどり着いた。右手には背の高い煙突と工場群が、左手には水平線まで広がる海が、そして正面には、対岸の街との間を少し窮屈そうに大型の船舶が行き来をしている。風のせいか、時折グラグラと揺れてしまうのは正直心許ないが、そのおかげで雲ひとつなく遠くまで見通せている。はるか向こうに見える立派な山は富士山だろうか。
「どや」
「よき」
「だろ?」
 若干悔しいが、たしかにいいものだ。
「なんかさ、ありがとな」
「まだ寝ぼけてんのか」
「いやほんとに」
 別にふざけてるわけじゃない。そう思われてるならそれはそれでいいけれど。
「お前にいっぱいかまってもらった―今もこうしてかまってもらってるから、元気になれたなって思ってさ」
 家族以外で誰よりも早く見舞いに来てくれたこと、色んな所に連れ出してくれたこと。今日だって、わざわざ車で迎えに来てくれた。カーナビから流れる音楽は、俺とこいつの両方とも知っている歌手ばかり。それとなく気を回せるのは間違いなくこいつの強みだ。それこそ自分には無理だろう。普段はおくびにも出さないけれど、さぞかしモテるのではないか。
 道中と同じようなことを気にしてしまい勝手にへこんでいる俺を知ってか知らずか、遠くに目をやった。
「俺が行きたかったとこに一緒に来てもらってるだけ、気にすることなんてないし、感謝するのはこっちさね」
「概ね二つ返事だしな」
「そうそう。基本断られないから、誘う方も気が楽」
 そう言って笑いあえることが、今は少し複雑で。これからはきっと、誘われるたびに俺は、俺だけがこんな風にうじうじ悩むんだぞと、そう文句すら言いたい気分。
 このままだって悪くはない、現状維持も立派な成果。
 それでも、と思ってしまう自分は今、隣で笑う友人の目を見て笑うことはできないだろう。
「飯食いに行くか。たまには俺が出すよ」
「気前いいじゃんか」
「牛丼でいいだろ」
「前言撤回。ていうかこんな田舎に牛丼屋はねえ」
「ですよね」
 昼食をめぐるネゴを開始しつつ階段を降りようとした時、今日一番のひときわ強い風が吹いた。友人のかぶるハンチング帽が宙に舞う。
 あっ、と口から声が溢れたときには、俺はすでに反射で飛び跳ねていた。その甲斐あって帽子は無事手のひらに引っかかったが、フェンス際でのジャンプは野球選手でも無ければするものでもない。案の定バランスを崩し、上半身に偏った重心は、寄りかかった俺の身体をフェンスの向こう側へ持っていこうとする。
 落ちる、落ちた。そう思った。そうでないことに気づいたのは、展望台の床の上に、二人で横になっていたから。すんでのところで俺の腕を掴み、引き止めてくれたようだった。
 ほっとしたのち、落っこちたらどうすんだと少し怒っているようだったが、細かいことは聞き取れなかった。なにせ、こいつに引き止められて抱きしめられたことだけで、俺の頭はもういっぱいいっぱいだったから。乙女かよ。
 もう少し、なんならこのまま永久に、このまま抱きしめられたままでだって構わない。そう思ったそのことだけは、はっきりと覚えている。
 心臓が破裂しそうなほどだったのは、怖い思いをしたからだけではない。この胸の鼓動がこいつにバレてたらと思うと恥ずかしい、でもひょっとしたら、俺のものだけじゃなくてこいつのものも混ざってるかもしれない。そのことを確かめようとしたときにはもう、友人は身を起こし、ため息を付きながら俺から身体を離していた。
「思ってたよりも重かったわ」
 呆れたようにつぶやいた友人の脚に、宣言どおりグーパンを食らわす。助けてくれたお礼に、加減はしておいた、感謝せい。
「長居はしないでおこうか」
 促されるままに立ち上がった俺はしかし、しかと見た。見てしまった。そうかそうか。なるほどなるほど。
「ちょっとそこで待ってろ」
 怪訝そうな顔をした友人から車の鍵を借り、今度は落っこちないように慎重に、だけど急いで階段を降り、助手席に置いてけぼりだったトイカメラを取りに戻った。
「せっかく来たんだ、写真取ろうぜ」
 息を切らして戻ってきた俺の勢いに気圧されるがままにうなずいた友人と並び、海と富士山を背景にシャッターを切った。
「気は済んだか?」
「完璧、たぶんね」
 訝し気な表情の友人とは対称的に、俺の心は晴れ渡っている。さっきまでの胸の痛みなど吹き飛んで、この晴天と同じように。写真にはバッチリと写っているはずだ。走って階段を登ってきたせいで顔が赤い俺と、一見冷静に見えるけれど、両耳を真っ赤に染めた友人の姿が。
 俺だけじゃなかった。隣に立ちながら実は緊張してたのは。手を伸ばし抱きしめてしまったことにどぎまぎして両耳を赤くしてしまったのは。
 それが分かっただけでも十分。その先については、これからだ。
 いつになるかはわからないけど、このひとが俺の目の前で顔を真赤にするのを目にするまで、いつしか生まれた想いをこのひとの目を見てちゃんと伝えられる日まで。
「うっし、飯食うぞ飯」
 でもとりあえず今は、戦の前に腹ごしらえ。
「機嫌がよい、馳走して進ぜよう」
「なんかいいことあった?」
「いいもん見れたからな」
「よくわからんけど、連れてきた甲斐はあったな」
 今度は一緒に階段を降りつつ、昼飯の算段と午後の行程についての相談をする。ここに連れてきてからあとについては特に考えてこなかったらしい。
「どうする。お前の奢りで穴子丼食ったらそれで帰ってもいいけど、お前の奢りで」
 まあそれでも良い。そんなに持ち合わせていないから、近場にあるらしい美味しい穴子丼とやらを食べれば、財布はすっからかんになるかもしれない。
「もう少し遠くへ行ってみたい」
 だけどちょっとだけ、欲張ってみる。
 病気のせいでドえらい目にあったんだ、少しくらい良い思いをしたってバチは当たらないはずでしょう?神様。
「心得た」
 緩やかな弧を描いて伸びる、ここじゃない遠くへ向かって進もう。少なくとも、俺たち二人を見下ろす太陽が顔を出している、そのうちは。

 

太陽が見てる/DREAMS COME TLUE

bottom of page