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 視界が泡立つ、感覚が、好き、だと思う。 

「そうなんだ」 

 目の前で、女が、乱反射する輪郭のまま、僕に相槌をうっている。 

 彼女は、僕に、毒を飲ませた。彼女は、毒を売って暮らしている。彼女の毒を飲むと、死んだり、おかしくなったり、する。たとえば僕は、女に、なる。 

 毒は、ひととき、僕の血管を這い回る。回虫のように臓腑を走り、躰を貪って、僕を作り変えてゆく。 

 物理的な痛みは、どうでもよかった。理性を喪わせるには十分な痛みだと思うが、僕にはすでにそれに値するものがなかった。 

 へこむ、ふくらむ、ちぢむ、のびる。 

 痛みとともにあふれ出る感覚の奔流に洗い流され、ぼくのこころは、ひたすらにシンプルだった。 

 

 

 女と出会ったのはいつ頃だったろうか。 

 夜のバーで会った気もする。朝のコンビニで会った気もする。夕暮れ時の駅のホームで会った気もする。あるいは、そのうちのどれも、間違いかもしれない。 

 女は、美人というわけではなかったが、愛嬌があった。話もうまかった。 

 僕は、彼女と、ひとところにとどまった。そして時折、まざりあった。彼女と混ざり合うとき、僕は、ひどく曖昧なものになった。僕と、そうでないものの境界が、わからなくなった。得体のしれない感覚だった。気味が悪く、心地よかった。 

 一度まざりあったあと、暫く時間をあけて、もう一度まざりあって、それからは時間をおかなくなった。 

「私が売ってるもの、知りたい?」 

 彼女が僕にそう告げたのは、そのようにして、僕たちが一とも二ともつかない状態になってからのことだった。 

 曰く、私は毒を売っているのだと。 

 最初、僕はそれを冗談だと思った。あるいは、何かの喩えだと思った。だから、僕はためらいもなく、彼女の差し出したそれを飲んだ。 

 それはカプセルだった。何の変哲もない、無機質なカプセルだ。羽虫ほどの大きさしかないそれは、しかし僕の胃の中で膨れ上がった。 

 一瞬、感覚がぷつりと途切れた。一拍おいて、次には痛みがきた。息もできなくなるほどの痛みだった。 

 目線で、僕は女に助けを乞うた。女は、僕をながめていた。より厳密にいうならば、僕を含む風景を。 

「言ったでしょう。私、毒を売ってるの」 

「ど、く」 

「毒。あなたをこわすもの。そういうものよ」 

 それから先の、女の言葉を、僕は正しく摂取できなかった。注がれたそれを啜る、その直前に、それらは凡て零れ、床のしみになって消えた。 

 

 

 極彩色。すべてが、極彩色だった。 

 目に映るすべて。耳に響くすべて。鼻孔をくすぐるすべて。すべてが、その一瞬の僕には極彩色だった。 

 その一瞬を通り抜けて、ホワイトアウトして、そしてようやく、僕は世界の輪郭を得た。 

「ようこそ」 

 女は言った。そして、僕の体をおこした。 

 てのひら。彼女の体温が、僕の背中をあたためる。目の前には、鏡がある。しかし、鏡に僕は映らない。 

 それは女だった。べに色の髪、白磁の肌、エメラルドの瞳。見ず知らずの、現実感のない女。 

「それがあなたをこわすものなのね」 

 耳元で女がささやく。 

「こわす……ぼくを?」 

 凡そ僕のものとは思えない、鈴のような声色で、ぼくは女に訊ね、女は、鏡の中のぼくと、視線を交わした。 

「そう。私のそれは、あなたをこわすものを現す。だから、毒なの」 

「どう、こわすの」 

「それは分からない。分かるのは、それがあなたをこわすということだけ」 

 少なくとも死ぬことではないわね、と付け加えたあと、女は僕の、女のイミテーションとなったぼくの耳をあまく噛んだ。 

 鈴が鳴った。 

 

 

 夜の濁流の中をかき分けた後、朝日が昇るころには、僕の中から毒は抜け落ちていた。 

 僕はこの感覚の虜になった。毒と一緒に、何か、僕の中の不純物のようなものが、はっきりと抜け落ちている気がした。 

「毒というより薬だね」 

 ある日の帰り際、女に言ったことがある。そんなことないわ、と女は否定したが、僕は今もやはり、そのように考えている。あれは薬だ。あの幻覚は、きっと恐らく、僕に蓋をしている何者かのメタファーなのだ。それを、女が、あのカプセルでもって取り外したのだ。 

 三度、同じ夜を繰り返した。僕は女に依存しつつあった。言い訳を取り払って言ってしまえば、既に、依存していた。仕事が手につかなくなり、女以外のすべてが、風景になった。 

「辞めてしまえばいいのよ。毒はたくさん売れるから、私、困らないわ」 

 四度目の夜に女は言った。五度目の夜のあと、そのようになった。 

 危機感。それを、僕ははっきりと理解していたが、しかし、許容していた。女に依存してしまうことが、ひどく、心地よかった。 

 思えば、僕は、僕を、許していなかった。汚濁や、不正や、妥協を、許してこなかった。あるいは、何者かのイミテーションとなることも。 

 僕は確固たるものであるべきだ、という強迫観念めいたものを、信じ切っていたのだ。 

 女はしかし、それらをすべて赦した。女のいう毒によって、僕の汚濁を、不正を、妥協を、何者かになってしまう僕を、イミテーションのモザイクを、赦してしまった。 

「あなたは大げさなのね」 

「しかし、僕にとっては驚くべきことだ。革命的なんだよ」 

「声が大きいわ」 

「……すまない」 

 カフェの、窓際のカウンター席で、僕と女は隣り合って、アイスコーヒーを飲んでいた。その日、我々の暮らす町は四月だというのにひどい暑さで、僕も、女も、すっかり汗だくになっていた。 

 僕は女を見た。女の首筋を這う、ひとすじの汗を見た。そして僕はそれに、そこからにおってくる艶に、夜の、毒を飲み込んだあとのぼくを、想起した。 

 イミテーションでありながら、きっとぼくのくびすじにも、あの汗はあるのだろう。そしてぼくはその汗を流しながら、煮崩れを起こしているのだろう。 

「何を、考えているの」 

 女と視線が交わる。僕はバツが悪くなって、無意識にそっぽを向いた。 

「あなたは、可愛らしくなったわね」 

「藪から棒になにを……」 

 店の中はこんなにも涼しいのに、僕は汗が止まらなかった。感覚が、機能不全を起こしている。 

 まただ、と僕は思った。女は、こうやって、僕を許していく。腹の底から昇ってくる「かくあれ」を、いともたやすく、握りつぶしていく。 

「私は、あなたにやさしくしたいだけ」 

「それは、結構なことだね」 

 テーブルの脇にある紙ナプキンを数枚とって、したたる汗を拭いた。そしてそれをくしゃくしゃに丸め、トレーに押し付けた。 

 やはり、だめだ。こんなことではいけない。こんなことでは…… 

 僕は立ち上がろうとした。しかしできなかった。女が腕を絡めていた。それはまるで、這いまわる蔦のようだった。 

「そんなことは、ないわ」 

 言外の、僕のこころを掬い取るように、女は言った。 

「君は、何だ」 

「今更、何を言うの」 

 私は、毒を売ってるのよ。 

 女は微笑んだ。 

「そろそろ、帰らなくちゃ……」 

「だから、そんなことはないわ」 

 女は、膝元のポーチを開けた。見知ったピルケースが、僕を眺めている。 

「明日もお休みなんでしょう?」 

「けれど、家だって片付けなくちゃいけないし」 

「そんなもの、後回しにしたっていいじゃない。それに……帰ってからでは、遅いのでしょ?」 

 女の、微笑の先に、僕は何があるのかを知っている。それを、ひとつの流れにおけるただ一点のしみにしておかなければならないことも、じゅうぶんに知っている。 

 だが僕は、僕には、既にその力がない。堰は切れ、押し留まることはなく、ただ流れるままに流れていく。その流れの中に何があるとしてもだ。僕はそれを許す。そう妥協する。そのようなものであってもいいのだから。かくある必要などないのだ。すべて彼女が赦しているのだから、それでいいのだ。 

 僕は立ち上がった。女も、寄り添うように立ち上がった。 

 我々は無言だった。言葉を必要としなかった。 

 

 

 やがて、ぼくは、僕であることをあまり必要としなくなった。今では、ぼくでいる間のほうが、よりはっきりとしている。 

 彼女は、いたむことのないように、眠る前に、ぼくにひとつぶの毒を渡す。ぼくは、イミテーションのまま、それを飲み干す。そうすると、ただその時間を延ばすだけで、痛みはない。ただ心地よいまま、目の前が、ぎらぎらとするだけだ。それも、すこししたら落ち着いて、僕はぼくのまま、こわれたまま、ぼくでいられる。 

 けれど、変な話だけど、時々、痛くなりたくて、ぼくはそれを飲まないでいる。それも、彼女は許してくれる。 

「あなたの好きなように、すればいいのよ」 

 二人で住む家の、部屋の中で、彼女は言う。 

 そして今日もまた、そういう日であった。朝方のキッチンで、僕はひとり、風景を飲んでいた。 

 僕には風景が必要だった。それは、僕を確認するための方法で、そうしていないと、僕は現在地を理解できないのだ。 

 テレビから音が鳴る。アナウンサーの声がけたたましい。政治の話など知らない。政治と僕は地続きではない。天気の話など知らない。天気と僕も地続きではない。そうあることなどない。僕はぼく以外のすべてと切り離されてしまっても、まったく問題がない。僕はそのように許されている。僕は許されてしまっている。 

「おはよう。今日は、はやいのね」 

 女の声がしたので、僕は残りの風景を吐き出した。寝起きの女が、視界に乗り込む。景色の中を、女は歩いている。 

「おはよう。はやいさ、今日はね」 

 女は、けだるげな仕草で、ポットからグラスに水を注いだ。我々の脳裏には、まだ、夜が燻っている。 

「ひとつ、訊きたいことがある」 

「なにかしら」 

「僕は、こわれてしまったんだろうか」 

 どうかしら、と女は言った。 

「あなたがそう思うのならそうなのでしょうし、そう思わずにいられるのなら、そうではないのかもね」 

 けれど。 

 女は付け加える。 

「その判別を、あなた自身が、つけられないのであれば」 

 僕は彼女の言葉を待たなかった。僕は視界から女を降ろした。もう一度風景を飲み込み、指先はカプセルをもてあそんでいる。 

「昔、僕は手遊びが癖だったんだ」 

 誰かに、というわけでもなく、僕は言った。 

「ペンを回したり、爪の垢を削り取ってみたり、ノートの端に落書きをしてみたり、そういうことばかり、していたんだ」 

 景色と記憶がだぶる。知りもしない動物の絵。ペン軸の感触。かくあるものの外にあったものども。 

「けれど、ある時親にこっぴどく叱られてね。それから、手遊びはしなくなった」 

 カプセルを口に含む。風景が吐き出される。毒を嚥下する。喉の感覚が、何よりも強くなる。 

 僕は振り返った。テーブルに身体をもたげたまま、女は僕を見つめている。 

「なあ、君。どうか僕を叱ってくれないか。僕は、かくあるべきものでなくてはいけなかった筈なんだ。僕は、こんなふうではいけない筈なんだ。君は、君の毒は、やさしすぎて、僕はもう」 

「いいのよ」 

「いいのかな」 

 女が微笑む。景色が拡散する。神経が泡立つ。僕はゆっくりと居間に向かい、ソファに倒れ込んだ。 

 女が歩いている。それだけが分かる。いずれ分からなくなるそれを、僕は耳で眺める。 

「あなたは、それていいの。いいのよ」 

 呼吸が短くなる。今僕は何かを感じている。それがなにものなのか、僕は理解している筈だったが、だがこの瞬間に至って、僕は、それを思い出すことができない。 

 僕は赦されていく。僕は毒に染まってゆく。ぼくは…… 

 朝の逆光の中。女が、微笑んでいる。逆光を浴びて、べに色の髪がゆれている。エメラルドの瞳が輝いている。 

 感じてゆくもの凡てが、白く煙ってゆく。僕はいよいよこわれ、毒は泡になって滲んで、それぞれの細胞のひとつぶずつに、ゆっくりと、沈着していった。 

毒/長谷川白紙

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