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150万画素

水彩ブラシ6

春の群青

 その日は、四月に入ったばかりなのに、いやに暖かかった。晴れているのに、空気にはうっすらと靄がかかっていて、車を飛ばしているのに、私はひどく億劫な気持ちだった。
 後部座席には、ボストンバッグが置いてある。ほんとうは、その中に私の荷物を詰め込むつもりだった。私のための、私の荷物。
 でも、今、その中に、私のための荷物は一つもない。
 そして、助手席には、乗っている筈のない人がいる。私の恋人。だった人。そう、なるはずだった人。
「ごめんな」
「いいよ、もう」
 何度目だかの謝罪の言葉は、未だ聴き慣れぬ声色のまま、私の耳もとに届いてくる。
 信号が赤に変わる。車はゆっくりと速度を落とし、やがて停まる。
 視線だけを、助手席にやる。少女が、窓の外を眺めている。ガラスに映る表情は、天気模様よりずっと昏い。
 はたから見れば、きっと姉妹に見えるだろう。私自身、そう思ってしまいそうになる。
 けれどそれは、事実とは違う。そこにあるのは、私の男、だった、ものだ。

 


 別れると決めた後、別れることそのものを、あるいは、別れるまでのことを、悔やまないようにしている。心がそうあろうとしている時でも、私はつとめて無視を決め込む。これまでも、そうして私は恋人と別れた。
 あいつはどうしようもないやつだったから。
 こころが同じ方向を向かないときに、私はそう言い聞かせる。
 そう信じることで、私にとってそれはそうなるから。
 ユウキと出会ったのは、友人の披露宴だった。私が新郎友人で、彼が新婦友人、我々を呼んだ二人は派手好きで、今の時世にあまり見ないような、豪勢な立食パーティだった。
 私もユウキも、目の奥が痛くなりそうな煌びやかさにあてられて、会場の隅で縮こまっていた。
 私たちは馬が合った。初対面のはずなのに、まるで十年来の親友のように、通じ合うことができた。
 ひと月と経たぬうちに、我々はねんごろする仲になっていた。
 それは二年ほど続き、そして今日、終わりを迎えるはずだった。
 私の荷物をとって、そのまま「じゃあね」と別れを告げる。別れると決めた後から実行するまで、私はその行動を頭の中で反芻し続ける。今朝もそうだった。のどけき春の真ん中で、合鍵をドアノブに差し込むまで、行為は言葉のまま、腹の中を行ったり来たりしていた。
 けれど、それはそこまでだった。言葉は言葉のまま、流れて消えた。六畳間の、万年床にあったのは、しょぼくれた優男ではなく、怯えた目つきの、少女だった。
 私ははっとした。まさか、と思った。湧き上がってくる感情が、はたして怒りなのかも分からないほどに、気が動転していた。
 けれど、それで終わりではなかった。次に口をついて出た言葉が、輪をかけて、私を取り乱させた。
「ねえ、ユウキ、どうしたの、そのかっこ」
 あるはずもないことだった。女装というには、あまりにも体型が違う。顔つきだってまったくの別人だった。でも私は、その少女をユウキと認識した。
 視線の向こうで、少女は目を丸くしている。そこからだんだんと表情が崩れて、そして彼女は泣きじゃくりながら、私の脚にしがみついた。
 私は鞄を取り落とした。茫然として、泣きじゃくる女のつむじを、しばらく、見つめていた。


 ある朝目覚めると、グレゴール・ザムザは虫の姿になっていた。
 高速道路の追い越し車線で、時速百キロメートルの私は、流れていく風景に言葉を投棄した。
 一般的にそれはフィクションで、その物語は何かの隠喩で、ザムザも、それを取り巻く人々も、すべてが何らかのメタファーのはずだった。
 しかし、私は現実で、またユウキも現実だった。
 おそろしい。
 ただその一言で済むはずの、助手席に座る少女への感情は、何とも似つかない、複雑な構造をしていた。


 助けてほしい。
 ひとしきり泣いた後、ユウキは、鈴がなるようなか細い声で、私に言った。
「助けるって、何を」
 そう訊ねる私に、少女は、ユウキの目の色をしたまま、言った。
 自分をユウキとして認識できているのが、私だけなのか、そうでないのかわからない、と。
「とりあえず、親に電話したんだけどさ。でも、親になんて言ったらいいかわかんなくて、声で、俺だなんて絶対思わないだろうから、って」
 なるほどと思った。普通、そういう事態に陥った人間ならそう思わなくもなさそうだし、それが性根の臆病なユウキならなおさらだ、と私は思った。
「だから、その……連れて行ってくれないか。ふたりのところまで」
 車、今のおれじゃ、運転できないから。
 そう付け加えたあと、ユウキは目を伏せた。
「ふたりが俺のこと分かってくれたら、そのまま俺をおいて帰ってくれていいし、わからなかったとしても、適当に近くの駅で降ろしてくれればいい。別れる相手に頼むようなことじゃないけど、でも今はお前にしか頼れない。だから……」
 そこまで言わせたところで、私はユウキを遮った。それから寝室に立ち入って、プラケースに入れていた着替えをいくつか取り出し、それをユウキにあてがった。
「これっきりだから」
 呆けた顔のユウキを見て、私は言った。ユウキは、また泣きそうになるのをこらえながら、こくりと頷いた。


 平日昼間の高速道路は、どことなく眠たげな空気が漂っていた。それが春先の、薄靄のかかった景色ならなおさらだった。
「ごはん、たべてないね」
 眠気をごまかすように、私はユウキに話しかけた。ユウキは、寝ぼけ眼のまま、か細い声で、そうだね、とだけ答えた。
「ごはん、どっかで食べよう。休憩したい」
 続けて私は言った。ユウキは、またもか細い声で、いいよ、と言った。
 どっちともとれる答えだな、と私は思った。思ったので、私は自分の都合の良いほうにとった。そして、すぐさま車線を変えた。
 それから数分と経たずに、私たちはサービスエリアにいた。平日らしくお客はまばらで、食堂では運送業らしき人たちが備え付けのテレビから流れるニュースを見ながら黙々と何かを食べていた。
 ひとまず腹ごしらえということで、私は親子丼を、ユウキはきつねうどんをそれぞれ注文した。
 券売機で、ユウキが財布を取り出そうとしたので、私はすぐさまそれを制止した。
「でも」
「いいの」
 こんなときまで遠慮しようとする人間に、私は何か言いたくなってしまいそうになって、けれど、もう別れる人だから、と思って、言わずに飲み込んだ。
 この人と私は、もう繋がらないひとなのだから。だからもう、いいのだ。

 旅をした時のことを、思い出す。私とユウキとは、何度か、一緒に旅をした。海にも、山にも、街にも、行った。
 ユウキは、どこにいてもおとなしかった。私はそれを、つまらない、と思った。私はまだ幼いので、つまらないというのは、すこし、息苦しい。
「なんだか、おじいちゃんと旅行に行ってるみたい」
 いつだったか、私はユウキに言ったことがある。何度目かの温泉旅行だった。土産物屋を何件か冷やかしてから、私とユウキは、喫茶店の少し高いコーヒーを飲んでいた。
 私の言葉に、ユウキは何も言い返さなかった。眉をハの字にして、ほんの少し微笑むだけだった。
 私は、その笑顔を、厭だと思った。そしてたぶん、その時、私は彼と別れようと思ったのだ。
 それはけして、ユウキが悪いわけではない。全部、私のわがままだということは分かっている。そのうえで、私は、別れよう、と思った。そして、別れることにした。
 そのはずだった。

 あ、という声がして、私は箸を止めた。視線をテーブルのほうにむけると、ユウキが襟元にできたシミを眺めていた。
「その、ごめん」
「いいよべつに」
 私の返事にユウキは何か言いかけて、けれど、結局何も言わなかった。
 私は、すこしいらいらした。ユウキに対して、ではない。これは、たぶん、対象のないいらいらだ。
 ちかごろは、ユウキといると、折に触れてそうなる。ユウキが悪いわけではない。だから、たちが悪い。
 そしてそれが、私がユウキと別れようと思った理由の、ひとつなのだった。
 どうにもならないのであれば、はなれるしかない。
 要するに、そういうことである。いらいらの理由を探って、探り疲れて、私が出した結論を、ユウキは昨晩、あっさりと飲み込んでくれた。いつもの、おじいちゃんみたいな表情で。
 その微笑みの意味を、私は理解している。その回答の意図を、私は把握している。
 だからこそ、私はユウキを手放すことにした。私にとって、ユウキは荷が重すぎた。
 それが私の出した結論、だった。
 けれど、と私は思った。
 今、この場において、それがまったく重要ではないということを、私は理解している。この、藁にすがることすらできないかもしれない人間に対し、それを求めていないからと言って、言うがままにするほどの薄情さを、私は持ち合わせていない。
「ねえ、ユウキさ、親御さんがユウキのこと分からなかったら、うち、来なよ」
「え?」
「だって、行くあてないでしょ」
 ユウキは、でも、とも、いいの、とも、言わなかった。私から戻ってくるであろう返事を推測しながら、口を半開きにしている。
 やがてまた泣き出しそうな表情をしてきたので、私はどんぶりの残りをかきこんだ。紙コップの水でそれを胃に流し込み、すぐさま立ち上がる。
「行こう。急がないと、日が暮れるから」
 ユウキは何も言わず、ただ頷いた。

 


 サービスエリアを出て、またしばらく、私は車通りの少ない高速道路を飛ばした。ユウキは、私の申し出ですこし心が軽くなったのか、いつになく饒舌だった。思い出話をして、時折、ころころと笑っている。
 薄靄のかかった私の感情も、今はすこしだけ晴れている。いつだかの、愉しかったころの二人だ。
「なんだか、昔みたいだね」
 思ったとおりのことを、ユウキが言った。
「私も、そう思う」
 思ったままに、私も答えた。それで、どちらからというわけでもなく、笑った。
 もしかしたら。
 今は、もしかしたら、ただ不安をかき消そうとしているだけなのかもしれない。
 自分の親が、自分を自分だとも気づかないかもしれないということ。私がいっときの仮宿を設けるだけで、それですべてちゃらになるような重さではない。
 でも、たとえそれがそのとおりだったとしても、今、私はとても心地よかった。私がユウキのそばにいるうえで必要だった感覚が、この座席に充満している。この道が、永遠に続いていやしないかとさえ、思ってしまうほどだった。このままでいられるのなら、ずっと幼い生き物になっていいとも思った。
 けれど、そうはいかない。物語には終わりがあるように、この道にも出口がある。例えば、隣の席の少女が言う「次で降りて」という台詞が、それだ。
 次で降りて。
 私は、言葉を信頼していない。言葉は、ただ、言葉だと思って接している。でも、その瞬間の、ユウキのそれは、言葉以上のものになった。なってしまった。
 ハンドルを握る両の手が、いっしゅんだけこわばる。間違いを犯すほんの少し手前で、私はたたらを踏んだ。
「うん」
 私は、それだけを言って、黙った。緊張だけが残る。ひた隠しにしていた空気のつめたさが、堰を切ってあふれる。さっきまでの空元気を窘めるように、カーラジオから流れる音だけが、いやに陽気だった。


 空はずっとぼんやりと晴れている。降りた先は見渡すかぎり田園で、その隙間を縫うように、私は車を走らせている。
 横目でユウキを見る。私の服を着た、私ではない少女は、背筋だけを伸ばして、前だけを見ている。唇の渇きが、ここからでもはっきりとわかる。
 次は、と私は訊ねる。
 まっすぐ、とユウキは答える。
 その次は、右。それから信号をみっつ通り過ぎて、そのあとのコインパーキングで、待ってて。
 私は言われるとおりにした。言葉は、やはり、ただ言葉である、ということにはならなかった。そこには重力があった。それは私を縛り付けていた。温度があった。
 石で心を擦り潰される感覚。意識から、流血していく。
 車の速度メーターが、少しずつゼロに近づく。窓を開けて、駐車券をとり、手近なところに停める。
 ついていこうか。
 サイドブレーキを引きながら、私はそう、声をかけようとした。でもそれよりずっと先に、ユウキは車を出ていた。
「ここで待ってて」
 私は、何も言えなかった。それは決意の眼だった。私の手元にある気安さで、踏み込むことのできない場所に、ユウキはいた。
「うん」
 私はそれだけを言った。それだけしか、赦されなかった。そうして、私の視界から、ユウキは消えた。
 窓を閉じる。呼吸を整える。エンジンを切って、私はハンドルにもたれる。
 それからしばらく、私は祈りの中にあった。それは本来、あってはいけない祈りだった。私の我が儘の中にある、独りよがりな祈りだった。
 それでも、私は祈った。
 やりなおせるのならば。私のこころがそう仕向けていたものすべてを、最初から全部、やりなおせるのならば。
 真昼の気配が、少しずつ遠のいていくのを感じる。切り取られた時間の中で、私はただ、呪うように、祈っていた。


 窓がノックされたのは、ユウキが車を出て、二十分ほど経ってからだった。感覚は、二時間も三時間も過ぎているようだったけれど、時計を見て、それが間違いだと気づいた。
 エンジンをかけて、パワーウィンドウのスイッチを押した。窓の向こうには、私の知らない女性がいた。
「あの、すいません。あなたが、ユウキの……」
 そこまで聞いて、私はすぐに、はい、と答えた。その瞬間、女性は頭を深々と下げた。
「息子を助けていただいて、なんとお礼を申し上げたら…」
 ああ。
 手足がしびれていく。唇がふるえる。それから先のあらゆる言葉が、私の表面を滑り落ちていく。
 私は、平静を保つことだけを考えた。愛想笑いをして、目の前の女性を軽くあしらって、なんだか言って渡してきた詫びの品物を受け取って。
「これ、駐車場代と、ガソリン代です。少ないかもしれませんが、お受け取りいただければ…」
「いえ、そんな」
「受け取ってください」
 茶封筒が、私をにらみつける。私に、権利はなかった。ただ、そうあれとされることに、そうすることしか、できなかった。
 その場を取り繕って、私は逃げるように駐車場を出た。見送る女性の視界からいちはやく消えてしまいたかったので、来た時とは違う交差点で、すぐに左折した。

 

 

 別れると決めた後、別れることそのものを、あるいは、別れるまでのことを、悔やまないようにしていた。心がそうあろうとしている時でも、私はつとめて無視を決め込む。これまでも、そうして私は恋人と別れた。

 あいつはどうしようもないやつだったから。

 こころが同じ方向を向かないときに、私はそう言い聞かせる。

 そう信じることで、私にとってそれはそうなるから。

 私の中にあるその矛盾は、今、取り返しのつかないかたちで破綻した。

 私はただ、泣くことを選んでいた。日が傾いている。春はいよいよ、群青を背負っていく。


 やがて私は、どこともつかない場所の、どこかもわからないコンビニの駐車場に、車を停めた。乱暴な停め方だった。
 ユウキが何を言って、どう説明をしたのか、私が知る術はない。ただ、ユウキのことだろうから、きっと私に迷惑が掛からないようにだとか、いらぬ世話をしているんだろう。
 悔しいな、と私は思った。車が涙でいっぱいになる気持ちをこらえないまま、脳みその根っこだけは冷めていて、だから、ただ冷静に、後悔をしていた。
 今ある、この全部は、私だ。全部、私の結果だ。だから今は、ただ、自分の腹の中で、悲しさと悔しさを、堪能するしかないのだ。
 なみだとなみだのあいだで、私は風景を観た。風景は、見渡す限り春の群青ばかりで、それだけが、私の視界に居座り続けていた。

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