top of page
君を憶う

 ある日の昼下がり。大学の講義が終わった帰りに、静かでゆったりとした時間が流れる喫茶店で、僕は持参した本を読んでいた。しばらく読み進めていると、ふわっとした雰囲気の女性店員が近付いてきた。
「お待たせいたしました。ホットコーヒーです」
 カチャリと小さく音を立ててカップが僕の前に置かれた。
「ごゆっくりどうぞ」
 そう告げて立ち去る店員に僕は軽く頭を下げた。
 普段は砂糖をたっぷり入れ、ミルクも入れて飲んでいるが、今日はふと昔を懐かしんで、何も入れずにブラックのままカップを持ち上げて口を付けた。
「うっ、苦い……」
 やはり前のようにブラックを楽しむことはできなかった。僕は観念して、いつもどおりたくさんの砂糖とミルクを入れて再びコーヒーを飲み始めた。
「はぁー、このほうが落ち着く……」
 以前の僕であれば甘くて飲めたものではなかっただろう。でも今の僕はこっちのほうが好きだ。
 カップを下ろしてくつろいでいると、近くの席の大学生ぐらいの男性がこちらをじっと見ていた。しかし僕と目が合うとさっと目を逸らした。
(別に目を逸らさなくても……。まあ、変な気持ちを起こさなければ、ね)
 僕のほうもその男性を視界から外し、またカップを手に取り口元に近付けた。
「……」
 カップの口を付けたところを見て、今では全然気にしなくなったことを急に意識した。
(慣れって怖いもんだな……)
 またコーヒーを一口啜ったところでカップを下ろした。僕は彼女のいなくなった今の生活にすっかり慣れきってしまっている。
(今君はどうしてるんだ……。園香……)
 心の中で名前を呼びかけ、瞳を閉じて、彼女の姿を思い浮かべた。僕の彼女――白河園香の姿を。

bottom of page