目が覚めた。
体を起こす。腕を見る。息を吐く。吸う。胸に触れる。鼓動がある。脇腹には包帯が巻かれていた。部屋にはベッドと大きめの棚がひとつ。それと点滴が左手にひっついている。診療所か何かのようだ。目の奥がごろごろする。大泣きしたあとになるやつだ。喉がいたい。かすれた声で、どうにか呼びかけた。
「……レイ、いる?」
――(ああ、おはよう、センリ)
「いた……」
――(いないと思ったの?)
「思った……」
神社で刺されて、倒れて、その先の記憶は曖昧だったが、レイが自分のカラダを動かしていたことは覚えている。不思議な体験だった。自分が出演している映画を見ているみたいで、そのくせ感覚はきちんとあるのだ。
「なんか、ひょっとして満足したのかなってさ」
――(まさか……)
あの程度じゃ償いになんてならないよ、とレイはつぶやく。償い――思えばはじめて出て来た言葉に、千理はどこかで安堵した。
それは、この先を見据える言葉だからだ。
「それじゃあ、どうする?」
――(わからない。どうしたらいいのかは本当にわからないんだ。でも、考えていこうと思う。考えるのは、正直苦手だけど……)
「……だけど?」
――(それは、センリが得意だろう?)
その言葉は、いつもよりもずっと近くで、ずっと温かく、ずっと幸せそうに響いた気がした。
「まあね」
ベッドから降りる。脇腹は引きつるような痛みを訴えるが、いつまでもお世話になっているわけにもいかない。夏休みは短いし、電車は一日四本なのだ。
――(勝手に帰る気?)
「そりゃそうでしょ。絶対事情聴取とかになるでしょ、めんどくさい。今のうち今のうち……」
そこで、ガラリ、と扉が開いた。
「あ……」
「あ……目が覚めたんですね」
安堵の色を浮かべてそう言ったのは、神社の巫女こと羽切璃々だ。お見舞いらしき切り花を持って、小走りに駆け寄ってくる。
「心配したんです、ずっと……あの……どうして点滴を抜いてるんですか?」
「……帰ろうと思って」
「だ、だめですよ……」
「そこをなんとか」
「そんなに軽い傷じゃないんですよ……?」
途端に顔色が悪くなっていく璃々には悪いが、千理にはもうとどまっているつもりはない。ととっと帰ってお風呂に入るのだ。
「ごめんね璃々さん。また、ほとぼりが冷めたころに会いに来るよ。あなたには、話したいことも聞きたいこともまだあるんだ」
「……」
わけのわからない言葉だったはずだ。しかし、璃々は戸惑った末、何かをあきらめたようにかすかに微笑むと「わたしも」とつぶやいた。
「わたしも、何かを話さなければいけないと……そんな気がしていたんです。不思議ですね、この間会ったばかりなのに。もっといろんな、いろんなことを……」
「……そうだね」
「また会えるのを、楽しみにしています」
そう言って、璃々は部屋の棚から千理の荷物を取り出してくれた。礼をいって受け取ると、手早く身につける。
「今ならまっすぐ駅に向かえば捕まらないと思います。誰かには見つかるでしょうけど、わざわざどうにかしようとする人の方が少ないですから」
「そっか、ありがと」
出口に向かう。扉を開ける。その背に、
「――彼のしたことは、許してはいけないと思うんです」
「……え?」
――(……え?)
「でも、わたしは、それでも彼を、今でも大切に想っています」
振り返る。璃々のまっすぐな瞳がこちらを見ている。慕うように、慈しむように、慰めるように、
「……だから、今度はちゃんと、お墓参りをご一緒してくださいね」
懐かしむように、微笑んだ。
**
「あんたさあ、やっぱり璃々さんとなんかあったんでしょ」
――(うるさいよ)
「全部思い出したんでしょ? 話しなさいよ。ほらほら、言えって」
――(忘れた、なにも覚えてない)
「なんだと……なんてやつだ……」
駅までの山道をのんびりと登る。駅舎で待つことになるかもしれないが、それはそれだ。
「璃々さんって、あんたのことが見えてたり、感じたりするの?」
――(そんなことはないと思うよ。あの子はあれで、センリと同じタイプなんだ)
「はあ? どういうこと? あんた今、嫌味を言ったってこと?」
――(なんでだよ……、だからさ)
「うん。納得できなかったら殴るから」
――(どうやってだよ!)
木々は相変わらずマイナスイオンを垂れ流して、濃密すぎる自然の香りが肺の中を満たしていく。ジャンクフード大好きな現代っ子としては樹木で酔いそうだ。
「で、どういうことよ?」
――(だから、センリと似たタイプってのはね)
「うん」
――(直感が鋭いってこと)
「……あー……なるほどね……」
砂利を散らし、砂を超え、土を踏みしめて隘路を往く。ほどなく、木造の駅舎が顔を出した。
「直感ね……レイが無関係の私に憑いてるのも、そういうのがあるのかもね」
――(どうだろうね。センリと出会ったのは偶然かもしれないけど……)
風が吹いた。
――(その偶然には、感謝してるよ)
緑の気配をまとわせて、肌を通り、心を撫でて、背中から抜けていく風だ。思わず吐息をこぼして、それから千理はかすかに笑った。
「それはそれは。光栄ですよ」
この道がどこにもつながっていなくても。見下ろす景色が行き止まりでも。壁の上から伸びる手があれば、乗り越えていくこともできるだろう。前へ。前へ。進んで行かなければならない。立ち止まっても、振り返っても、いつかは前へ。
きっと、死ぬまで。――いつか、死んでも。