熱い。悠真の幼い掌から高すぎる体温が伝播して、千理の内臓を焼いている。身体の中心を侵食する真っ黒い灼熱は、すぐさま猛烈な痛みに変じた。
「いっ……ぎっあっ……!」
腕を振る。相手は子供だ、よけ損ねた悠真はナイフを腹に残したまま倒れて転がった。すぐにぴょこんと起き上がって、屈託なく笑う。
「必死に考えたんだ」
「はっ、はっ、はあ……?」
「変えたいんだ、おれは。もっと面白いものが見たい。あの日見た景色よりも、もっとすごいものがみたいんだ」
熱い。痛い。熱い。痛い。意識がかすむ。気持ちが悪い。誰かが叫んでいる。レイだ。レイが名前を呼んでいる。応えられない。
あの日見た景色。景色――
「ゆうま……見たの? ここで死ぬのをっ……見たのね?」
「見た。この神社、裏道から登ってこれるんだ。あの日も森から回ってきた。今日みたいにね」
ナイフが刺さったままだ。熱い。苦しい。刃物は抜いたほうがいいのだったか、迂闊に抜いてはまずいのだったか。動かないほうがいいのは間違いないだろう。しかし状況がそれを許すだろうか。
「あんなことがあっても村は変わらなかった。なにも変わらなかった。すごいものが見られると思ったんだ。でも、結局意味なんてなかった――だから、自分でやることにした」
――事件はふたつあった。
殺人事件と傷害事件。それはいい。だが、それならばその先も考えるべきだった。
傷害を起こしているのは誰なのかを。
「おれが自分で殺せば、きっと見たことのない景色が見られると思うんだ」
新しいナイフを取り出して、悠真が笑う。言いたいことが山ほどあるのに、ひとつも言葉にならない。見れば、じわじわと赤い血が広がっている。黒くて赤い。世界が揺れている。自分が立っているのかどうかもわからない。
「これでもいろいろ試したんだよ。でもどれもだめだったんだ。だから、もういいかなって。ほかに方法がないんだから、しょうがないよね」
近づいて来る。気配がする。逃げられない。気持ち悪い。寒い。痛い。熱い。吐き気がする。地面の感触。倒れているのだ。いつの間に。声がする。誰の声だろう。痛い。痛い。
「本当はりりねえちゃんを殺すつもりだったんだけど……こっちのほうが話題になりそうだし、いいかな」
頭上から、すぐ近くから、声がする。身体が重い。地面に沈み込む。それなのに、意識はふわふわと浮き上がっていく。世界が遠ざかる。耳元で、
――(センリ!)
(レイ)――
声が出ない。意識だけが浮遊している。乖離していく。分離していく。意識と肉体の別離。ただの入れ物になってしまった肉体が、死んでいくのを直感する。
――(センリ! しっかりしろ! センリ!)
(ごめん、レイ)――
助けられない。考えられない。もっと、これからもっと、やるべきことがあったのに。
こんなところで、行き止まりになるんて――
――(センリ、センリ! センリ! だめだ、止まれ! そこで止まれ! 体を、カラダを……! そこにいろ、センリ! 君は、君が――)
――こんなところで、行き止まりになるなんて、
「許されるはずがないだろう!」
風が吹いた。
山から吹き込む冷えた風が、肌を凪いでいく。陽射しの熱を感じる。土の感触を知る。呼吸の味を思い出す。夏の香りが蘇る。痛みすらも歓喜に等しい鮮烈さをもって彼を迎えた。
澄咲千理の肉体で、彼は立ち上がった。
「……悠真!」
鋭い声だ。何度も何度も聞いた声だった。そう、これはセンリの声だ。
「な、なんだよ、急に元気になって」
震える脚で、それでもしっかりと立つ。地面を踏みしめる新鮮な感覚。ああ――生きている。
「……きっと、わからないと思うけど……お前を止めるのは、たぶん僕の義務だ」
「なんでさ。おねえちゃんはおれと関係ないじゃんか。殺されてくれればいいんだよ」
「だめだ」
ほかの何を認めても、それだけは許せない。彼女が、こんなところで終わってしまうなんてありえない。
「なんだよ、殺されてくれたっていいじゃないか! おれは見たいんだ、今より違うものを見たいんだよ! 殺せば、それが見られるんだろう!」
「なんて……」
何をどうしてそんな考えにとり憑かれるようになったのか、悠真はそれでも必死に叫んでいるように見えた。信じているのだ。少年にとって、人が人を殺す瞬間は、それほどに強烈で鮮烈だったのだろう。
だが、言わなければならない。
「違う。そんなことをしても、何も見られない。見られないんだ。僕は知ってる――その先には何もない。断絶だ。行き止まりしかないんだ」
「行ってみなきゃわかんないじゃんかよ!」
「行った後じゃ手遅れなんだよ……!」
ナイフを振りかざして少年が吠える。血が流れている。熱が零れていく。この少年を止めなければならない。センリがそうであるように、彼もまた、行き止まりに立つには早すぎるのだ。
「僕は、どうしようもないやつだ。失敗して、諦めて、ヤケになって、なにもかもを台無しにしてしまった。それでも、だからこそ、」
呼吸を整える。目を凝らす。思い出せ。成績は優秀だったんだ。筋が良いって褒められた。さあ――構えろ!
「このひとだけは守らないといけないんだ――!」
一直線にナイフが向かってくる。ためらないのない軌道で喉を突いてくる。その手首に、
――トン、
と千理の小さな手が触れて、
「えっ」
クルリ――と、まるで冗談のように、悠真の身体が綺麗な弧を描いた。そのまま背中から参道の石畳にたたきつけられて、悠真は声にならない悲鳴をあげた。一発でナイフを取り落とし、カラダをくの字に折って悶絶する。
「はあ、はあ、はあ……」
息が荒い。目の前がかすむ。悲鳴が聞こえた。おぼろげな視界の中に、顔面蒼白になって駆け寄る璃々の姿が見えた。いつまで経っても追いかけないから、戻ってきてくれたのだ。助かった。
「ずっけえ……なんだよ今の、反則だ……」
せき込みながら、悠真が悲鳴じみた声を漏らした。心外な発言だ。
「悠真も通えばいい。少しは汗をかくべきだ、お前は」
「なんのこと……」
目を開けるのもつらかったけれど、それでもできるだけ見栄を張って、格好よく笑ってみせる。
「――柔術教室の常連だったんだ、僕は」
残念ながら、それを聞いた悠真の反応は見られなかった。肉体の限界か、意識を失ってしまったからだ。