top of page
行き止まりの景色

 まず、景色があった。
 どこかの山村を、高台から眺めているビジョンだ。全く身に覚えのない、記憶にひとつも引っかからない景色。ある時から、時折その景色がふと浮かぶようになった。どこか寂しく、決定的な断絶を感じる景色だった。
 次が違和感だった。
 何かを『不思議だ』と感じている。いつもどおりの日常のどこかに、いいしれぬ不安定さがある。そういうものが揺れている。
 新聞は相変わらず家族間の行き違いから起きた悲劇を訳知り顔で語り、テレビは物騒な傷害事件を面白おかしく騒ぎ立て、教室では今しか見えない少女たちが誰かの迫害に明け暮れている。どうしようもないほどいつもどおりのその世界に、強烈な違和感があった。
 それがしばらくつづいたあと、違和感が自分から乖離していることに気がついた。この不安定感には、実感が伴っていない。まるで感情を後付けされたような不自然さがある。そのことに気付いてほどなく、千理は声を聴いた。
 ――(どうしたらいいんだ。どうなっているんだ)
 それは耳の後ろ、頭蓋の裏、脳髄の奥から響く、若い青年の声だった。戸惑い、疲弊し、困窮している声だった。
「あなた誰?」
 だから千理はそう聞いた。どこの誰なのか知らないが、彼は明らかに困っていたからだ。
 ――(き、聴こえるのか? 僕は、僕は……僕にもわからないんだ、でも、君の、君のうちがわにいるみたいだ)
「……はあ?」
 ――(君の――心の中にいるんだと思う)
 千理にだけ聴こえるその声は、なるほど千理の内側に響いていた。いくらかの混乱と話し合いの末、某氏には記憶がないことがわかった。彼は何も覚えていなかった。ただし、『自分は死んでいる』という妙な自覚だけはしっかりと抱えていた。
 幽霊にとり憑かれた。
 千理はそう思った。そしてどうやら、それは正しいようだった。

**

「ほんと、すっげ田舎」
 獣道というほどひどくはないが、近代の交通路とは思えない程度には粗雑な、つまるところ山の荒道を歩きながら、千理はため息まじりにそうこぼした。なんといっても、緑、緑、また緑。東京生まれ東京育ちの千理にとっても、実のところ木々はさほど珍しい存在ではない。しかしここまで濃厚な『自然』を感じることは、都内では滅多にない。
 大きい公園はいくらでもあるが、あれらの木々とここに息づく樹木とでは、なにかが根本的に違うのだ。
 ――(センリ、どんな感じ?)
「マイナスイオンで肺が溺れそう。レイは? 見覚えある?」
 ――(……やっぱり、懐かしい感じがする)
「って言っても、山と森だからね。私だって、なんだか懐しいって思うよ」
 ――(日本人の原風景、みたいなことなのかな。でも、そういう曖昧な感じじゃないんだよ)
「収穫があるといいなあ」
 こんな遠出は何度もできない。先の見通せない山道を進みながら、千理はちらりと空を見上げた。伸びる枝葉が視界を覆い、太陽の光を遮っている。おかげで直射日光はあまりあたらない。日焼けの心配はなさそうだ。そういえば彼も暑さを感じるのだろうかと考えて、そういうところは自由が効くんだったと思い出す。
「レイ、暑くないんだよね」
 ――(そういう感覚は「閉じて」る)
「ずるいっ」
 ――(そういうけどさ、これ、結構難しいんだよ。最初はできなかったんだ)
「最初は見てたんだもんね」
 ――(……すいません)
 視覚や聴覚などの感覚は、ふたりで共有している。千理が見ているものを、レイも同時に見ている。彼自身がそう望めば感覚を「閉じる」ことも可能らしく、そうすれば何も見えず聞こえなくなるという。
 お風呂やトイレに関しては、彼の良心に期待するしかなかった。
 状況を把握したあと、ふたりが考えなければならなかったのは解決方法だ。なにせ、年頃の乙女にとってこの状況は、あまりに酷ではないか。
 幽霊なのだから、成仏させるのが筋だろう。まっさきに思いつくのがお祓い、次に浮かぶのが未練の解消というやつだ。だが、お祓いは効果がなかった。神社の厄除けではなく、もっと本格的なやつを頼めば違ったのかもしれないが、五千円以上の出費は許容できない。
 未練の解消にも問題があった。なにせ彼には記憶がない。いったいぜんたい、自分がどうして幽霊になって、あまつさえ女子高生の肉体にすべりこんでしまったのか、本人にもわからないのだ。
 ヒントになるのは、目を閉じれば浮かびあがる、視界にすべりこむ謎の景色だけ。
 結局ふたりは、足を使って記憶の引っかかりを探し回ることにした。あちこちの写真を見たり、できるだけ歩き回ったり、目につく本を片っ端から読んでみたり。二週間協力しながらその過去を探し回った。レイ、という呼び名もその過程で名付けたものだ。
 そうして、とうとう見つけた。
 それは朝のニュース番組だった。物騒な内容を面白おかしく報道するいつもの光景。そこで紹介されていた小さな山村に、彼は反応した。
 ――(ここかもしれない)
 なるほどその山村の雰囲気は、高台からの景色によく似ていた。
 学生が気軽に行ける距離ではなかったが、幸いにして既に夏休みだ。休みに遊びたいと小遣いもせびってある。交通費を計算して泣きたくなったが、このままよりはマシだと思うしかない。
 そうしてふたりはこの山に辿り着いたのだ。
「なんか、たまにはいいね、こういう田舎道も。さわやかなんだよなあ」
 ――(そういうものかな。僕はよくわからない……やっぱりここで暮らしていたのかな)
「だといいなあ。顔も名前も分からないから、聞き込みもできないんだよね」
 ――(自分の写真を見れば、思い出すかな?)
「かもしれないけど、そんなものどうやって探すのさ」
 ――(それはほら、がんばって)
「がんばるの私だよね、それ」
 ――(がんばって!)
「こいつは……」
 用意した水分を補給しながら、土を踏みしめていく。やがて、道幅が徐々に広がった。足で固められた荒れ地から、ある程度整えられた砂利道になる。これなら車も通れそうだ。トレッキングシューズが砂利を踏み散らすシャリシャリという音を聞きながら、更に前へ。山肌から見下ろすような立ち位置で、はるか下方に千理はそれを見つけた。
「村だ」
 山間の、狭いスペースに密集する民家たち。いくらかの田畑が見えるが、まるで文明から切り離されたような印象を受ける。陸の孤島という言葉がこれほど似合う場所もそうあるまい。
「見覚えは?」
 ――(……わからない)
「山は懐かしいけど村は見覚え無し。ははあ、不安になるね!」
 それでも行くしかない。ようやっと見えた目標に少しだけ足を軽くして、千理は再び山道を降りはじめた。

bottom of page