おおよそ四十分ほどで、千理はその村に辿りついた。森を抜けて急激に広がる視界には、土の道とまばらな民家、それに田畑が見える。ここまでの道程で既に太陽は中天を超えている。早朝に出て来たというのにだ。
「田舎だ……」
――(気をつけてね)
「何に気をつけるってのよ。レイこそ、ちゃんと見てる? 見覚えあるの?」
――(うーん……あるような、ないような……)
はっきりしない言い分に若干のいらだちを覚えながら、千理は広々とした田畑を横目に畦道に踏み込んだ。しっかり準備をしてきたおかげでなんとかここまで来ることができたが、さすがに足にはいくらかの疲労を感じる。
「今日は泊まるようかな。電車もほとんどないし」
――(そうだね、そうしたほうがゆっくり話も聞けるだろう)
「旅館、あるかなあ。公民館とか借りられるかな」
少なくとも、見える範囲にホテルのような建物はない。
――(なくはないと思うよ。温泉とかあればいいよね)
「いやでも、電車が一日に四本しかないんだよ? 旅館なんかあっても経営がつづかないんじゃないの? ていうか本当に人住んでるのかな。あの家、幻じゃないよね?」
――(センリは田舎をナめてるよね?)
旅館はともかく、まずは腹ごしらえだろう。見晴らしの良すぎる田舎道を、いくつか見える建物に向かってポツポツと歩いていく。ほんの数分で、千理はかすかに首を傾げた。
誰にも会わない。
夏休みの昼日中だ。子供の一人くらいはいてもいいだろうに、すれ違いもしない。
――(家の中にいるんじゃない?)
「家の中でなにするのよ」
――(ゲームとかかなあ。最近の子供ってそういう感じでしょ?)
「この村電気あるの?」
――(センリは田舎をナめてるよね……)
結局住人には会わなかったが、ほどなくして小さな食堂を見つけた。木造の平屋で、入り口には屋号の書かれた看板がかけられている。達筆すぎて読めないためなんのお店なのかは不明だったが、入店すると老夫婦が笑顔で迎えてくれた。
「人いたわ」
――(そりゃいるよ)
外からの客であることは向こうもすぐに察したようだった。すっかり昼時を逃した店内に千理以外の客はいない。よほど珍しいのか、老年の夫人が水を出しがてら声をかけてきた。
「お嬢ちゃん、どこから来たんだい?」
「東京からです。ちょっと調べものがあって」
「こんな何もない村に? 何を調べにきたの」
「……思い出? ですかね」
夫人は不思議そうな顔をしたが、うまく説明できる気がしなかった。
事実、千理がこの村に求めるのは自分の中にいる青年の記憶なのだ。つまるところ、これは追憶を辿る旅だと言えた。とはいえ、説明しても不審がられるだけだろう。何かしらの事情があることを察したのか、夫人もそれ以上はつっこんでこなかった。
注文したそば定食は絶品だった。
「水が違うんだよ、たぶん。飲んだら寿命が延びるんじゃないのもしかして」
――(さっきから思ってたけど、センリ、ここは田舎であって仙境じゃないんだよ)
「センキョウってなにさ」
サービスのお茶を飲んで一服を終えると、疲労感もだいぶ回復した。人がいることもわかったし、本格的に調査をはじめる頃あいだ。
「どうもありがとう。美味しかったです」
「そりゃよかった。東京の人なんてめったにこないから、不安でねえ」
「水が違うんですかね? 飲んだら寿命が延びます?」
「ただの井戸水だよ」
「い、井戸水……」
千理にしてみれば井戸水という時点で十分驚きに値する。井戸って本当にあるんだ、と声に出さずにつぶやいて、
――(センリ……)
その声を聴いたレイが悲しそうにつぶやいた。
「それで、あの、このあたりに村を見下ろせるような高台ってあります?」
「高台? 見下ろすっていっても、なんせあたりは山だからねえ」
「そこまで高いわけじゃなくて、ちょっとした丘っていうか……」
「どういう景色?」
「うーん……」
目をつむる。かすかに浮かぶのはやはり小高い丘からの眺望だ。もう見慣れてしまった光景だったが、
「……っ?」
千理は目をつむったまま、かすかに眉をしかめた。
寂しくて、断絶している――その印象そのものは変わらない。だがその鮮やかさが違う。濃密で鮮烈なイメージが、いつもの景色に焼き付いている。
どうしようもない落胆と、焦燥と、後悔と、絶望。
言うなれば行き止まり。世界を広く見渡す光景にも関わらず、その風景は致命的なまでにつながりが欠けていた。
「どうしたの?」
「えっ、ああ、いえ……なんでもないです。実は、私もよくわかってないんです。歩いて探してみます」
「あらそう?」
不審そうにしながらも、この夫人はとにかく踏み込まない。今のうちに話題を変えてしまうべきだろう。
「ええと、それじゃあ、このあたりに泊まるようなところってあります? 旅館みたいな」
「旅館ねえ……あることはあるんだけど、ちょっと前に閉めちゃったのよ」
「あら。……経営難で?」
それ見たことか、と見えない相棒に聞かせるような得意げな声に、
「いいえ」
しかし夫人はかぶりを振った。
「跡継ぎだった息子さんがねえ――殺されちゃったのよ」
「……殺された?」
――(殺された?)
「あんた、知らないで来たの? 夜は気をつけなよ。鬼がうろついてるのよ、この村には」
自分の村のことだというのに、夫人は疲労感を滲ませる声でそう言った。千理は答えない。彼女はもちろん事件のことは知っていた。そもそも、そのニュースを見てここに来たのだ。
「おい、余計なことを言うなよ」
奥から店主が現れて夫人をたしなめる。すいませんね、とどこへ向けたのかもわからない謝罪をこぼして、夫人は会計を済ませてくれた。
「泊まるところなら公民館があるから、そこで聞いたらいいと思うよ」
アドバイスに礼を言って店を出る。もう少し詳しく聞きたいところだったが、店主がそれを許してくれそうになかった。
「ああいうのはすぐにいなくなるって、わかってるだろう。外の客に変なことを言うな」
「いなくはならないでしょう。捕まるはずもないし。鬼が帰ってきてるんですよ。おそろしいことですよ……」
去り際に、そんな会話がかすかに耳をかすめた。
「確かに、こんな狭い村、すぐに犯人もわかりそうだけど」
――(そうだね……)
「駐在さんとか、いるのかな」
――(いると思うよ。寄り合い所って言ってたけど、駐在所に聞いてもいいね)
「どっちにしろ、村の中心だね」
牧歌的という言葉をカタチにしたような長閑な山村は、まるで血の匂いを感じさせない。どこかちぐはぐな違和感を胸に沈ませながら、千理は村の中心を目指して歩いていった。