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アンダーカレント

 手首を切るのは、心地のよいことだった。
 といっても、無論、それをはなからそういうものとして捉えていたわけではない。
 それ以外のことが心地よくなくなってしまったので、相対的に、手首を切ることが、心地のよいことになってしまったのだった。
 よくないことだ、という理解はあった。けれど、その瞬間の私に、それがよくないことかどうかということは、大きな問題ではなかった。
 ただ、私は、それ以外の、心地よくなくなってしまったものどもを、手早く塗りつぶせればいいのだった。
 例えばそれは食事であり。
 例えばそれは排泄であり。
 サイドテーブルであり。
 時計であり。
 式場のパンフレットであり。
 婚約指輪であり。
 この、ダブルベッドに充満している全てであった。
 真っ黒いワンピースのまま、ここ二ヶ月は泣いてばかりで、心地のよいことなんて、考える余地もなかったけれど、ようやく、そういう隙間ができてしまった。
 こんなことばかりしていたら、私はきっと死んでしまうだろう。
 でも、そんなでもいい。
 そのほうが、ずっといい。
 手首を洗い流しながら、私はその時、そんなふうに考えていたのだった。

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