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行き止まりの景色

 鳥居はもとより、境内もさほど広くない神社だった。手水舎と、社務所と、本殿があって、それだけ。手慣れた様子の悠真につづいて、手水舎で身を清める。
 ――(左、右、口をすすいで、また左、最後に柄だよ)
「すげえ」
 ――(ここの子供は全員できるんだよ。教わるからね)
「……思い出したの?」
 ――(……すこしずつね)
 たとえほんのわずかでも、記憶が戻ったことは喜ばしい。少なくともこの村の出身であることは確定したのだ。……にも関わらず、レイの声は暗く澱んでいた。じわり、と胃の上のほうに得体のしれないわだかまりが泳ぎ出す。濁った感情が渦を巻いている。
 果たして、それは誰の感情なのか。
「……悠真さん? こんにちは」
「こんちは!」
 ふわりとすべりこむように、静やかな声が響いた。見れば、いつの間に現れたのか、巫女服を着た少女が悠真に笑いかけている。こちらをちらりと見て、少女は丁寧にお辞儀した。
「あ、どうも……」
「外の方ですか? ようこそいらっしゃいました」
 誰も彼も、一目で千理を外様の人間だと看破する。それほど人が少ない村なのだろう。
「なにもない村ですが……」
「いえ、都内では見れないものばかりで、楽しいですよ」
 巫女さんとか――とは思っても言わない。
 ――(センリ、巫女さんは都内にも普通にいるよ……)
「あんた、心を……!」
 ――(想像つくでしょ、もう短い付き合いでもないからね……)
 実際にはたかが数週間の関係だ。長短で考えれば長いとはいえない。しかしその密度が違う。文字通り、二十四時間「一緒」にいるのだ。
 ふと、この巫女さんならばレイを祓えるのだろうか、と一瞬考えて、千理はすぐにその思いつきを振り払った。そもそも、千理の中にはもう、レイを「祓う」という選択肢はない。理解して、納得して、満足して、そして穏やかに立ち去ってほしい。無理やり追い出すような関係では既になくなっているのだ。
「ええと、はじめまして、澄咲千理です」
「羽切璃々です。璃々とお呼び下さい」
「りりねえちゃんは、宮司さんの従妹なんだよ。そんで巫女さんやってんの。ね!」
「そうですね。至らぬ身ですが……」
 しずしずと目を伏せる璃々は見た目どおりのおしとやかで奥ゆかしい少女のようだ。小袖と緋袴の紅白に、腰まである長い黒髪が映えている。年齢は千理と同年代か、多少は上程度だろうか。
「千理さんは、どうしてこの村に?」
「ああ……探し物をしているんです。ちょっと難しいものなんですけど」
「探し物……? 伝統的な何かでしょうか。この神社には、あまり特異な神事などは伝わっていませんが……」
「いや、そういうものでもなくて……探し人っていうほうが正しいのかな。ここに住んでいた人なんですけど」
 璃々はゆっくりとした仕草で首をかしげた。「お名前は?」と問われて、千理は首を振る。名前も、年齢も、外見もわからない。男性だということだけが手がかりだ。
「……それではさすがに、見つけられないでしょう。全員と面通しをするとか……」
「今はもういないんですよ」
「あら……」
 困ったように曖昧な笑みを浮かべる璃々に、千理も苦笑する。この条件で見つけようとするのはもちろん無理だろう。実際にその人物を探しているわけではないのだが、しかし説明はめんどうくさい。頭がおかしいと思われても困る。
 ちらりと視線を送る。会話に飽きてきたらしい悠真が、賽銭箱の方に走っていくのが見えた。
「この神社に、鬼の伝承ってあります?」
「鬼……いえ、特には……民間伝承を調べているんですか?」
「まあ、それも一環というか……」
 肝心のところをぼかすとどうしても中途半端な聞き方になってしまう。もう腹をくくって直接聞いたほうがよいのかもしれない。
「……殺人」
「え?」
「この村で起きた殺人事件のことを、聞かせてもらってもいいですか?」
 その言葉に、一瞬だけ璃々の表情が凍りついた。村の面々は皆あっけらかんと事件について口にしていたが、璃々にとっては軽々に話せることではないらしい。年齢を考えても、隆真と交流があったのかもしれない。
「あの事件は……とても、悲しいことでした……」
 それでも、璃々はつらそうに口を開いた。ふらふらと泳ぐ視線が、境内を一周して鳥居の傍で止まる。
「まさかあんな、あんなことになるとは誰も思わなかったんです。あんなに優しくて、穏やかな人だったのに……」
 きゅ、と胸元を抑えて璃々が俯いた。同時に、千理の胸にも言いようのない痛みが広がる。心臓を絞り上げるその痛みは、紛れもなく千理のものでありながら、同時にどこか他人事のような違和感がまとわりついている。
「レイ……?」
 ――(やめよう、センリ。彼女はいやがってるじゃないか)
「……」
 ――(センリ。他人の傷口を広げてまで聞くようなことじゃないだろ)
 レイの言葉は正しい。事件が本当にレイと関係するのかなんてわからないのだ。少なくとも、今この少女の口から聞き出すようなことではない。
「あの、すいません、変なことを聞いて……」
「いえ……わかっているんです、いつまでも引きずっていてもしようがないってことは。けれど、どれだけ時間が経っても、あの光景だけは……」
 血を吐くような声で、呻くように言う――
「……光景?」
 ――その言葉に、違和感があった。
「おねーちゃん」
「あっ、悠真くん……」
「りりねえちゃんを虐めないでくれよなあ」
 気が付けば、悠真がふくれっつらで腰に手をあてている。璃々を守るようにふたりの間にわりこんで、ジロリと千理をにらみつけた。
「ご、ごめん……」
「いいんです。悠真さん、大丈夫ですから」
「ほんとお? まあいいや、行こう、おねえちゃん。まだ見せたいものはあるんだ」
「ああ、うん……」
 お参りをし損ねたが、今更ここの神様に祈れるほど図太くない。もう一度璃々に謝罪して、千理は境内を出ようと石段に向かった。
「だめだよ、りりねえちゃんにあんな話したらさ」
「え?」
 じわり、と違和感が滲んでいる。胸に、心に、頭に、思考に、なにかがおかしい、なにかがズレていると悲鳴をあげている。なにが? なにに? これは誰の違和感だ?
 ――(センリ)
「にいちゃんはさあ、ここで死んだんだ――殺されたんだ」
 あっけらかんと、なんでもないことのように悠真は言った。
「りりねえちゃんが、それを見つけたんだよ」
 ズキン――
「……おねえちゃん?」
 心臓がひしゃげる。思考が歪む。視界が塗り潰される。ノイズ混じりの暗闇の中に、見知らぬ光景が浮かんでくる。いつもの高台の景色じゃない。鳥居のすぐそば。境内の端。暗闇。葉擦れの音。青年が倒れている。頭から血を流して動かない。これは。この景色は。
 ――(ああ、そうだ……)
 レイの声が、
 ――(ここで、死んだんだ)
 どこかずっとずっと遠くで、染みるように響いた。
 そんな馬鹿な、と自分の心が叫んだ気がした。けれど深く考える間もなく、千理の意識はここで一旦途切れた。

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