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行き止まりの景色

 高台からの景色が、眼下に広がっている。
 絶望的なまでに断絶した、孤独の景色だ。落胆と、焦燥と、後悔と、絶望が、ひたひたと忍び寄ってくる。もうおしまいだ、と誰かが叫んでいる。
 ――成功しなければならなかった。
 この閉塞した、どこにもつながらない村から抜け出して、成功しなければならなかったのだ。自分を育ててくれた村に、家族に、恩を返したい。
 だから努力した。
 毎日毎日、血を吐くほどに自分自身を積み上げた。磨き、育て、そうしてついに成し得た。成し得たのだ。
 ……たった一度の不運。たった一度の失敗。たった一度の悪意が、それら全てをグズグズにしてしまうまでは、自分は確かに成功者だった。
 そのはずだったのだ。

**

 目が覚めた。
 全身が寝汗でぐっしょりと濡れている。起き上がると、古ぼけた毛布が体の上から転がり落ちた。くしゃくしゃに丸まった布の塊をぼんやりと見て、澄咲千理は「ああ」とかすれた声でつぶやいた。
「……夢か」
 おかしな夢だった。落胆と、焦燥と、後悔と、絶望とが混然一体となった、いわく言い難い、泥のような――マグマのような感情が渦巻いている、そういう夢だった。
 詳細は覚えていない。忘れてしまった。
 起き上がって、軽く背を伸ばす。ここは公民館だ。唯一鍵がかかるという柔道場で、毛布二枚を借りてくるまって寝ていた。ひとりで寝るには広すぎるが、畳なのはありがたい。携帯電話を引き寄せて時間を確認する。午前二時。真夜中だった。
「……はぁ」
 夜の熱気の中を、ため息が流れていく。山の中だからか、それともたまたまそういう日なのか、東京にいる時ほど蒸し暑くない。背中をじっとりと濡らす不快な汗は、気温以外の何かに原因があるらしい。
「レイ?」
 シャワーを浴びたいが、さすがに公民館にはない。銭湯のようなものを期待したいところだが、いずれにせよこの時間では開いていまい。我慢するしかなさそうだった。
「ちょっと、レイ?」
 あの後――ほんの一瞬の断絶のあと、千理はすぐに意識を取り戻した。あまりに鮮烈なビジョンの影響だろうと、千理は適当に理屈をつけた。そう外した考えでもないだろう。それほどに強烈な印象を残す映像だった。
 神社を出た後は早々に悠真と別れて、夕飯もそこそこに寝入ってしまった。疲れていたのだ。慣れない山道を長く歩いたし、なにより……
「……レイってば」
 ……なにより、やはり衝撃が大きかった。
 もう一度ため息をついて、千理は座りこんだ。レイはたぶん「閉じて」いるのだ。考えているのだろう。
 自分の、死、について。
 神社で見たビジョンを思い出す。脳裏に焼き付いてしまって離れない。いつもの景色を上書きしてしまったかのようだ。
 頭から血を流して倒れる青年。うつ伏せに倒れていて顔は見えない。どす黒い血が参道に広がっている。微動だにしない。死んでいる。そう、直感で理解できる。
 わかっていた。レイが死んでいることも、この村で殺人が起きていることも、わかっていたのだ。不思議でもなんでもない。そのふたつが直結していることは、至極当然だ。
 そう理解はできるが――納得は難しい。
「これで解決……って感じじゃないもんね……」
 レイの過去は、調べればすぐにでもわかるだろう。死んだ理由も、死んだ場所もわかった。しかし、レイは未だにここに残りつづけている。話しかけても返事はないが、これもまた直感で理解できるのだ。
 しゃがみこんで耳を塞ぐレイの姿が、見えるようだった。
「……お墓参りでもすればいいのかな」
 もうそれくらいしか思いつかない。しかしそんなことでレイが納得できるとは思えなかった。追憶をたどって、目的に辿りついた。けれど、その道はどこにもつながらない行き止まりだ。
 あるいは、犯人を捕まえでもすればいいのか――
「……?」
 ――犯人。
 じわり、と心臓を違和感が締めつける。まただ。村を散策していたときから、時折こうして言い知れぬズレのようなものを感じる。なにかがおかしい。なにかが間違っている。正しい位置に収まっていない。そう感じるのだ。
「いや、待て、まって――」
 ずっと、これはレイの感情なのだと思っていた。記憶のない故郷の中で、レイが抱える複雑な心情が違和感となって千理を揺さぶるのだと思っていた。
 しかし、今レイは「閉じて」いる。こちらの情報は向こうに伝わらないし、向こうの感情はこちらに影響しない。そのはずなのだ。
 違和感がある。なにかが違う。違うのだ。
「なんだ? なにが違う? なにが……」
 明かりをつけて、メモを取り出す。村に来る前から事件については調べていた。村で新しく得た情報も、都度書き加えている。頭が痛い。目の奥が痺れる。なにかがおかしいのだ。
 辻褄の合わないことがある。
 ――(センリ、もうやめよう)
「……ああ、レイ。おはよう」
 ――(もう十分だ、センリ。君には本当に迷惑をかけた。感謝してもしきれない。もう全部思い出した。もういいんだ。これ以上知りたいことはない。わからないこともない)
「……そうなの?」
 ――(ああ。この柔道場にも見覚えがある。よく通ったよ。筋がいいって褒められたんだ。全部覚えてる。センリももう、わかっただろう?)
「わかった……わかったのかな」
 ――(そうだよ。もう全部わかったじゃないか。あの神社で死んだんだ、僕は。それがわかっただけでも十分だ)
 そんな馬鹿な、と心が叫んだ。
 何が十分なものか。そんなの、何もわかっていないのと一緒だ。仮にレイが全てを思い出しているとしても、それで満足だとは思えない。まだここにいることがその証明ではないか。
 もちろん千理も、これが自分のエゴだと理解している。わからないことがあるのは自分の方なのだ。それが気になっているだけ。レイが十分だというのなら、それで十分と思うべきだ。これは澄咲千理の物語ではなく、レイの――雛倉隆真の物語なのだから。
 ――(だからもうやめよう、センリ。これ以上君ががんばる必要なんてないんだ)
「わかった、わかった……ごめん、レイにしてみたら、もう終わりにした方がいいのかもしれないもんね。帰る前にお墓参りに行こう。そこで……終わりにできるなら、そうしよう」
 レイが同意する。それがいい。それでいい。それが無難な結末だ。どこにもつながらない行き止まり――なら、そこでおしまいにするべきなんだ。
 そう思ってはいても、どこかでまだ違和感がへばりついている。終わりになんてなるはずがないと、自分の中にいる誰かが、必死にそう叫んでいる気がした。
「寝直そう」
 きっと寝れないと思いながら、千理は明かりを消して毛布をかぶり直した。

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