村の墓地がどこにあるのか、もちろん千理は知らない。レイなら知っているかもと思ったが、そのあたりの記憶は曖昧なようだ。仕方なしに璃々に尋ねることにした。
お線香をあげたいというと、璃々はかすかに微笑んだ。
「ありがとうございます……少し待っていてくださればご一緒します。ちょうど村の反対側で、道もわかりにくいですし……わたしもご無沙汰でしたから」
そう言うのであれば断る理由もない。ぼんやりと境内で時間をつぶしながら、千理は早朝のさわやかな空気に目を閉じた。
「田舎って、なんか空気が違うように感じるよ」
――(そうかもしれないね……)
「レイって、一回、都会に出てるわけ?」
――(どうして?)
「いや、なんとなく」
どうしてそう思ったのか、自分でもよくわからない。レイの受け答えが、全体的に都会と田舎両方を知っていそうだった、というのが大きな理由だろうか。
――(まあ、そんなような感じだよ)
「なにそれ、はっきりしないなあ」
璃々が参道の掃除をするのを眺めながら、はあ、と吐息を漏らす。墓参りの後は一日四本しかない電車に乗って東京に戻り、お風呂に入ってぐっすり眠ろう。レイがどうなるかはわからない。成仏するのかもしれないし、このままなのかもしれない。今となってはもう、それでもいいような気もしていた。
そう簡単に離れられるような関係では、既になくなっている――そう思う。
「すいません、着替えてくるので、待っていてください」
掃除を終えたらしい璃々が社務所に向かって駆けていく。結局迷惑をかけている気がするが、まあ目をつむってもらおう。
ふと鳥居が目に入る。いやでもあのビジョンを思い出す。参道に倒れる青年。明らかな死体。トラウマになるのも無理はない。ましてそれが知り合いの死体だったのなら。
「璃々さんって、あんたのこと好きだったりしたのかな」
――(なんだ突然、下世話なことを。そういうんじゃないよ)
「そう? この村、同年代とかどうせ少ないんでしょ?」
――(言い方……)
あんなに優しくて穏やかな人だったのに――璃々はそう言っていた。好感情があったことは間違いないだろう。とはいえ、故人をあまり悪く言うような人間では彼女はないだろうが。
――(センリ……昨日はごめんな。センリの考えを邪魔する権利なんて、僕にはないんだけど)
「え? ああ、いや、それはいいよ。レイの言うことの方が正しいと思う。レイがそれでいいっていうなら、それでおしまいの話だよ、確かに」
――(ああ……死んだあとの世界って、こんなふうに見えるんだな)
「どんなふうなの?」
――(全部が……)
どろり、と胸の中心が重くなった。その錯覚はいやになるほどはっきりと、質量を伴って千理の呼吸を圧迫した。
――(全部が、行き止まりみたいだ。どこにもつながっていない……)
死ぬということ。未来を失うということ。
その意味は、未だ千理にはわからない。千理は若く、幼く、未来を向いて、生きている。
「そっか……疲れた?」
――(実を言うと、最初の頃はセンリと話すたびに疲れてた)
「ちょっと、おい、ちょっと」
――(それは今もなんだけど)
「おい!」
――(でも、それよりずっと、心地いいと思うよ。まだしばらくこうしていたいくらいだ。センリには……迷惑だろうけど)
そんなことない、とは言えなかった。それはレイのこの先を邪魔することになるかもしれないからだ。
不安定で、不格好で、行き止まりで立ち尽くすような結末だが、それでも終わりは終わりだ。レイにはちゃんとここで終わりを迎えさせてあげたいと、千理も今はそう思える。
わからないこと、納得のいかないこと、どうしても残る違和感。そんなものは豚の餌にでもしてしまえばいい。
「なんか、美味しいモン食って帰りたいな。昨日のおそばまた食べようか」
――(ああ、いいね。寿命も延びるしね)
「長生きしないとね」
――(ほんと、センリは長生きしてくれよ。それが救いになるって気がする)
「よくわかんないなあ、それは……」
益体もない話だ。けれどそれがいい。そういう時間が大切なのだ――
「お待たせしました!」
声に顔をあげる。涼し気なワンピース姿の璃々が立っていた。巫女姿の時は後ろでまとめていた黒髪を、頭の上のほうでポニーテールにしている。
「ん、ごめんね、お手数かけます。行こうか」
「とんでもない。私にとってもいい機会なんです。」
先導して鳥居をくぐる璃々の背中に、ふと思いついて声をかける。なにも、ふたりきりで行くこともない。
「ねえ、悠真くんも呼ぼうか?」
「……え?」
璃々は振り返ると、不思議そうに首をかしげた。
「悠真さんですか? ああ、いえ……どうでしょう。悠真さんは元気な子ですから、お墓参りなんて退屈じゃないでしょうか」
困り顔で璃々はそう言った。
どうしてそんな提案を突然したのか、よくわからないという顔だった。
退屈?
「それに、」
それに?
「それに今日は、隆真さんのお見舞いに行っているはずですから――」
ズキン――と、心臓が痛んだ。
「……ああ、そうか。そっか。そうか……」
「澄咲さん……?」
そうか。
「ごめん、先に……先に行っていて。あとから、追いかける」
「え、でも……場所が……」
それはそうだ。千理には場所がわからない。けれど仕方ない。それは誰かに聞けばいいのだ。
「いい。大丈夫だから。先に行って。ごめん、すぐに追いつく。絶対に追いかけるから」
「あ、はあ……」
首を傾げながら、それでも璃々は先に石段を降りていった。千理はひとり取り残される。
決して広くはない境内。死体がそばで倒れていた鳥居がある。そう、あれは死体だ。あれが死体なのだ。
心臓が痛い。激しい鼓動とともに、焼けるほどの痛みが全身をめぐっている。
何かを訴えるように。
これは誰の痛みだ。これは誰の。何の。
一歩踏み出す。鳥居の下。石段の上。かすかな高みから、村を見下ろす。
ああ――この景色だ。
どこにもつながらない、断絶された世界。こじんまりとした鳥居の下からのみ見える、穏やかな村の風景。落胆と、焦燥と、後悔と、絶望。
「レイ……」
レイ。死んだ青年。鳥居。神社。事件。面白おかしい報道。この村には鬼がうろついている。優しくて穏やかな人だった。どれだけ時間が経っても。雛倉隆真。雛倉悠真。殺人。死体のビジョン。
「……レイ……」
失敗した、と千理は思った。
失敗した。考えるのではなかった。気付かなければよかった。知らないふりをして、なあなあで終わりにすればよかった。これは澄咲千理の物語ではないのだ。首をつっこむべきでは、最初からなかった。
相手の痛みを感じて心を曇らせるほど通じ合う――そんな関係になるほど一緒にいるべきではなかったのだ。
――(センリ、やめろ)
でも、それでも。それでも澄咲千理は言わなければならない。痛みを、これほど強い痛みを胸に覚えるのならば、それを言葉にしなければならない。ほんの短い期間、けれど濃密に過ごした友人への、それが敬意だと千理は思うからだ。
だってこの痛みはレイの痛みだ。
このままで終わりにしてはいけないと誰より彼が感じているのだ。
暴いてくれと――叫んでいる。
――(だめだ、センリ、やめて、やめてくれ……これ以上君が、)
傷つくことはないんだ、と、彼はそう言った。
けれど、だからこそ、千理は止まらなかった。
「あんたが殺したのね――レイ」
鈍く、重く、粘ついた何かが心臓をどろりと包み込んだ。それは紛れもない重圧であると同時に、不思議と心の一部を軽くするような何かだった。